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データ視覚化の歴史|空間時間人間を探す旅 8

コロナ禍となりニュースに頻繁に登場するようになった地図やグラフは、ある地域や期間における感染状況をわかりやすく視覚化したもので、現時点の状況のみならず、過去から現在までの推移や今後の予測などもひと目でわかるのが特徴です。

今回は『データ視覚化の人類史 グラフの発明から時間と空間の可視化まで』(マイケル・フレンドリー 著、ハワード・ウェイナー 著、飯嶋貴子 訳/青土社)を参考文献として、主な視覚化手法をご紹介しながら、その歴史をたどってみたいと思います。


データ視覚化の人類史 グラフの発明から時間と空間の可視化まで

内容紹介

折れ線グラフや棒グラフはいつどのように生まれたのか。

グラフィックコミュニケーションの爆発的な普及は、視覚的思考という認知革命によって強化されたものであることを明らかにし、データの可視化とグラフィックコミュニケーションの400年にわたる進化を、様々なストーリーとイラストで詳しく紹介。

(出版社書籍紹介より)

ピクトグラム

東京2020オリンピックでは、開会式のピクトグラムのパフォーマンスが大きな話題を呼びました。

ピクトグラムとは視覚的に情報を伝えるための絵記号のことで、図像化手法の一つです。

人の動作や物をシンプルな絵で表現することで直感的に情報伝達でき、公共施設や道路の各種標識(サイン)によく使われています。

1920年代、哲学者のオットー・ノイラートとイラストレーターのゲルン・アルンツが統計学で使うために作成したことがピクトグラムのルーツだといわれています。

前回(1964年)の東京オリンピック・パラリンピックでオリンピック競技のピクトグラムが初めて採用され、これを機に世界的にピクトグラムが普及しました。

図像の進化

図像(英語:Iconography)とは、抽象的な情報を絵で表現したもののことをいいます。

古くは図像化により、数の概念も同じ認識を持つことができました。

私たちが日ごろPCやスマートフォンで目にするアイコンも図像です。保存や印刷、電源オン/オフなど、その絵を見ると何ができるかがわかります。

1 諸仏の像や曼荼羅(まんだら)などの図様を描き示したもの。多く白描で描かれるところから白描図像ともいう。

2 何らかの主題・象徴を担う画像。キリスト教におけるイコンなど。

(出典:コトバンク『図像』)

図像の進化形|地図

図像進化の例として最初に挙げられるのが地図です。

初期の地図は、近接する都市どうしの距離や方角を視覚化したものでした。

地図をより正確なものにするには、より正確なデータが必要です。そのためには地球上・天体上の位置を緯度経度で表す「地理座標系」を使う必要がありました。

地理座標系を初めて使ったのは、エラストネス(紀元前276年~195年)やヒッパルコス(紀元前190年~120年)。

そして、地図が持つ座標系の概念を点・線・幾何学図形の方程式で表し、ユークリッド幾何学と代数学をリンクさせて数学に革命を起こしたのが、哲学者であり数学者のルネ・デカルト(1596年~1650年)です。

データを図像に結びつける

データを図像に結びつける試みは、合理主義者と経験主義者の主張にもとづく科学の進化とともに変わっていきました。

合理主義者は生得観念(信仰や善悪のような、人間が生まれながら持っている観念)と直感的観念(点や線、言語という概念)があると主張。より大きな概念(四角形や三角形など、ものを表す言葉 vs. 動作を表す言葉)は人間の知性によって導き出せると説いていました。

これに対し、経験主義者は知識と自然の法則は経験にもとづくものでなければならないと主張し、理論や命題、それらの真偽の判断は観察や検証から導き出されると説きました。

16世紀~18世紀にかけての科学分野での大発見は経験的観測にもとづくもので、経験主義と視覚化との結びつきは古代ギリシャ黄金時代から始まり、18世紀後半に完成しました。

予想外のものを見る|天気の歴史

天文学は、望遠鏡など観測機器の発見によって画期的に進歩します。

オックスフォード大のロバート・プロット(1640~1696)は1年間毎日気圧測定を行い、記録した気圧の値をグラフで表現し「天気の歴史」と命名。

やがてこれが天気の科学(気象学・気候学)へと進化していきます。

経度問題|相次ぐ海難事故を防げ

16世紀から17世紀にかけて科学において最重要問題とされたのが時間、距離、空間的位置の測定。

中でも最も厄介で重大な問題は、陸上・海上における正確な経度測定でした。

天体観測はつねに変化し、現地時間、悪天候、雲がかかる時間帯の決定が難しく、それによりしばしば深刻なエラーが生じていたため、特に海上での経度測定は困難を極めました。

頻発する海難事故を防ぐため、当時ヨーロッパ諸国では経度発見者に懸賞金を与える制度を設けるほどでした。

そんな中、オランダのミヒャエル・ファン・ラングレン(1598年~1675年)はトレド~ローマ間の経度距離の12の測定を視覚的に示し、これが初の統計グラフとなります。

データをグラフにするという概念を生み出したのがラングレンでした。

月のビジュアル化|月面地理学

地図製作の一家に生まれたラングレンは、1644年、経度発見を公表し『海と陸の真の経度』という書物を出版しますが、詳細は暗号文のみで公表され、いまだに解読されていません。

彼の研究では、海上の経度を決定するには以下の2つが必要だとしています。

  • 月の山頂やクレーターほか、特徴に名前を付けた正確な月球儀や地図
  • 月周期に伴う日出・日没の標準時間開始を記録した位置推算表

月面模様の暗い部分に海や大洋の名前を付けたラングレンは、月をわかりやすくビジュアル表現し、月面地理学(月の特徴を図面化すること)の発展に貢献しました。

社会情報のマッピング|原因と関係性を求めて

やがて時代が現代に近づくにつれ、社会現象のデータを取得・管理するようになると、そのデータを分析し視覚化する技術が進化します。

人口データ、出生、死亡、犯罪、疾病などの社会的な情報を地図上に表示(プロット)できるようになり、関係性やパターンの理解・発見が進んでいきました。

以下、例をいくつか紹介しましょう。

主題図

ドイツの経済学者・統計学者、アウグスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム・クローム(1753年~1833年)はさまざまなシンボルを使って、金・銀・魚・タバコなどの製造地を地図上に表示しました。

彼がプロットした『新ヨーロッパ地図』は、経済データを利用した最初の主題図と考えられています。

統計地図

バロン・シャルル・デュパン(1784年~1873年)は、フランス国内の地域別教育レベルを地図上に表しました。現在「コロプレス地図」と呼ばれるこの地図は、統計地図として最初の例です。

地図上で統計結果を表わすこの表現の発明が真のグラフィック革命の出発点であり、社会問題の比較分析とともに、より一般的な社会地図の製作へと拡がっていきます。

犯罪発生要因の分析

1892年、弁護士アンドレ=ミシェル・ゲリーは地理学者アントニオ・バルビと協力し、犯罪データと他の変数との関係性を示す地図を製作しました。

この手法はさまざまな社会現象の視覚化に使われ、これにより要因分析が行われるようになります。ちなみに相関という概念が発見されるまで、このあと約60年かかります。

下図では地域ごとに陰影が付けられ、濃いほど状況が悪いことを表しています。

左上:対人犯罪数、右上:窃盗犯罪数、下:教育 [1]

コレラマップ|コレラ大流行の原因究明

1854年夏、ロンドンをコレラが襲いました。

麻酔科医ジョン・スノウ(1813年~1858年)はデータを収集して死亡者の居住地を地図上に表示し、特定の井戸の近くに患者が多いことを突き止めます。

当時のロンドンは下水処理施設が整っておらず、街に悪臭が漂っている状態だったため、コレラは空気を伝わる悪臭「瘴気(しょうき)」が原因だと信じられていました。

しかしジョン・スノウはデータにもとづく可視化により原因は特定の井戸からの水であることを突き止め、該当する井戸の利用を中止するよう公衆衛生局に要請。これにより、感染が収束しました。

地図上でのデータ可視化が感染拡大を食い止めたのです。

ジョン・スノウによる元の地図 [2]

この地図には、1854年、ロンドンで大流行したコレラの症例のクラスターが表されています。

汚染されたポンプは、ブロード・ストリートとケンブリッジ・ストリート(現レキシントン・ストリート)との交差点にあり、汚水がリトル・ウィンドミル・ストリートに流されていたのです。

こちらにもジョン・スノウのコレラマップについて紹介したコラムを掲載していますので、あわせてご覧ください。

鶏頭図|クリミア戦争での兵士の死因究明

1953年、フローレンス・ナイチンゲール(1820年~1910年)は看護団としてクリミア戦争に参加します。

野戦病院で負傷した兵士の治療を行う中で、兵士の死因の大半は戦争による負傷ではなく、病院内の不衛生な環境にあることを突き止めます。

帰国したナイチンゲールは、イギリス政府に野戦病院の環境改善を求めます。

政府を説得するには、実態をわかりやすく説明する必要があると考えた彼女は、数学や統計学の知識を活かして「鶏頭図」(鶏のとさかグラフ)などでデータの可視化を行い、野戦病院での治療環境の実情を訴えました。

鶏頭図には、クリミア戦争における最初の7ヶ月間の死者のうち、病気を単独の原因とする死者数が年率60%もの割合になることが示されており、これはロンドンで大流行したペストやコレラを超える割合でした。

ナイチンゲールの熱心な働きかけにより衛生委員会が設立され、結果的に予防可能な原因による死亡者数は激減しました。

死亡率に関するナイチンゲールの図 [3]
負傷による死亡者数(赤)、他の原因(茶色)による死亡者数、予防可能な発酵病の数による死亡者数(灰色)

こちらにもナイチンゲールについて詳しく紹介したコラムをこちらに掲載していますので、あわせてご覧ください。

データグラフィックスの「ビッグバン」

ウィリアム・プレイフェア

イギリスのエンジニア・政治経済学者ウィリアム・プレイフェア(1759年~1823年)は『商業および政治のアトラス』(1785年)と『統計簡要』(1801年)の著書を出版しています。

彼は『商業および政治のアトラス』に掲載された貿易収支の時系列チャート統計グラフの発明者として、さまざまなインフォグラフィックを考案。

『商業および政治のアトラス』で折れ線グラフ、面グラフ、棒グラフを、『統計簡要』で円グラフを掲載しました。

データをグラフで表すことは現代の私たちにとっては当たり前のことですが、グラフ発明前、データは単にテキストで表わされており、相関や割合を直感的に理解することは困難でした。

データを視覚化すると情報を理解しやすくなることを発見し、そのための手法を編み出したのがプレイフェアだったのです。

彼はデータの横断的性質を表わす形式としてはイギリスのジョセフ・プリーストーリーの方が上だと認めており、歴史を視覚化し、特定の分類を一つの図の中で示せることに関心を寄せていました。(下の伝記図表を参照)

プリーストーリーによる、紀元前6世紀の歴史的著名人の生存期間を年表に記した図表 [4]

プレイフェアによる、スコットランドの輸出入量を示す棒グラフ [5]

プレイフェアによる、オスマン帝国の構成を大陸別に示した円グラフ [6]

1860年から1890年にかけての期間がグラフィックスの黄金時代と呼べる所以は、この時期が、統計学者のみならず政府や地方自治体も含めた人々の飽くなき野望や、グラフ表現の可能性と問題点について議論したいという熱意、そしてグラフ表示が、ほぼすべての種類の科学関連の会合に欠かせない重要な付属物となったことによって特徴付けられるからである。

(出典:ファンクハウザー,1937年 P330)

ハワード・グレイ・ファンクハウザーの言葉にあるように、19世紀後半は「グラフィックスの黄金時代」と呼ばれる時期でした。

しかしその後20世紀前半は新たなグラフィックスイノベーションが起こらず「近代の暗黒時代」と呼ばれます。

おわりに

コンピュータの発達によって3次元データや時系列変化を可視化することが容易になり、今後より一層説得力のある表現が可能になっていくのでしょう。

新しい技術が新しい表現を生み出し、新たなインスピレーションを引き起こす。そういった「デザイン(設計)」と「デシジョン(決定)」のプロセスがこれからも続いていくのだろうと思います。

<参考文献>
『データ視覚化の人類史 グラフの発明から時間と空間の可視化まで』(青土社/マイケル・フレンドリー、ハワード・ウェイナー著 飯嶋貴子訳)
【出典】
[1] A.-M. Guerry's Moral Statistics of France: Challenges for Multivariable Spatial Analysis.
(ゲリー、バルビの著書『教育状況と犯罪数の比較統計』)
A.-M. Guerry's Moral Statistics of France: Challenges for Multivariable Spatial Analysis.
[2] John Snow - Map of the book "On the Mode of Communication of Cholera" by John Snow, originally published in 1854 by C.F. Cheffins, Lith, Southhampton Buildings, London, England. The uploaded images is a digitally enhanced version found on the UCLA Department of Epidemiology website.
[3] Wikimedia Commons - Example of polar area diagram by w:Florence Nightingale (1820–1910).  This "Diagram of the causes of mortality in the army in the East" was published in Notes on Matters Affecting the Health, Efficiency, and Hospital Administration of the British Army and sent to Queen Victoria in 1858.
[4] Joseph Priestley, AChart of Biography, London, 1765.
[5] William Playfair - The Commercial and Political Atlas, 1786 (3th ed. edition 1801)

[6] William Playfair (1759–1823) - Scanned from the book "The Commercial and Political Atlas and Statistical Breviary", Cambridge University Press 2005. ISBN 0-521-85554-3.
Pie chart from Playfair's "Statistical Breviary"

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睦月はじめ

建築学科卒業。照明デザイン、雑誌編集、空間情報、ITビジネス企画などの実務経験あり。歴史、アート、テクノロジー関連の書籍から空間時間人間のテーマを考察していく。

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