ナイチンゲールは「白衣の天使」「クリミアの天使」として知られています。
しかし看護師であるフロレンス・ナイチンゲール(1820-1910)のもう一つの顔が統計学者であることは、あまり知られていません。
今回はフロレンスの実像に迫っていきます。
クリミアの天使は統計学の母
フロレンスはイギリスの上流階級の両親のもとに生まれました。
大変裕福な家庭で、17歳の時、六頭立ての馬車、御者二人、召使い三人とともに家族で大陸を巡る豪華な旅行をするほどでした。その旅行でフロレンスは、イタリアではオペラとピアノ、パリでは社交に明け暮れたといいます。
それにも増して優雅だったのが、娘フロレンスへの教育です。父ウィリアムが自ら教師となり娘フロレンスに教えたのが、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、歴史、哲学、そして数学。
なかでもフロレンスを熱中させたのが数学です。
時間のある限り机に向かい数学に打ち込む娘の姿に、母は数学の勉強をやめさせたいと思うほどでした。華やかなパーティよりも論理を追究することに没頭した数学少女でした。
もう一つフロレンスが打ち込んだのが、貧しく苦しむ人々に心を寄せる慈善です。彼女は手記で次のように語っています。
私の心は人びとの苦しみを想うと真っ暗になり、それが四六時中……私に付きまとって離れない。……私にはもう他のことは何も考えられない。
詩人たちが謳い上げるこの世の栄光も、私にはすべて偽りとしか思えない。眼に映る人びとは皆、不安や貧困や病気に蝕まれている。
『ナイチンゲール』(小玉香津子著)より
かくして24歳のフロレンスは貧しい病人の看護をすることを決心します。
まさかこのとき看護が数学と結びつくとは夢にも思わなかったことでしょう。
衛生管理の大事さを「鶏のとさか」で視覚化
1854年、英国とフランスはロシアに宣戦しクリミア戦争が勃発。
前線における負傷者の多さを伝えるニュースが流れると、フロレンスは看護師として38名の看護師を率い従軍する決意をします。
多くの負傷兵を献身的に看護する現場でフロレンスは、一つの事実を見つけます。死傷者増の原因が負傷者の扱いのずさんさだったことです。
政府と軍はそのことを把握できなかったため、前線で十分な看護救護体制をとることができませんでした。
フロレンスはイギリス兵の死亡原因が病院の衛生管理にあることを明らかにし、国会議員に理解してもらうことに力を注ぎます。
ここでフロレンスの数学の出番となります。
「鶏のとさか」と呼ばれるカラーグラフがフロレンスによって考案されました。
死亡原因を分類し視覚化したグラフ「鶏のとさか」
このグラフのおかげで戦場における兵士の生活環境の改善の必要性が国会議員や官僚に理解され、陸軍病院の衛生環境は改善されました。
結果的に傷病兵の死亡率を劇的に引き下げることが実現されました。さらには陸軍医学校まで新たに創設され、イギリス中の病院で衛生環境の改善が行われるまでになりました。
看護師フロレンスがこのような独創的な「グラフ」を作りだせたのも少女時代に熱中した数学のおかげです。
フロレンスが若い頃から強く影響を受けたのがベルギーの統計学者アドルフ・ケトレー(1796-1874)です。
ケトレーは、確率論を社会現象に適用する「社会物理学」を提唱し「近代統計学の父」と呼ばれています。フロレンスはケトレーと交流していく中で社会に活用できる数学の力を獲得していきました。
1860年には、統計学者フロレンスとケトレーは互いに協力して、第4回国際統計会議において衛生統計の統一基準の採択を実現するまでになりました。
数学を味方につけた看護師フロレンス・ナイチンゲール。彼女は人々の命を救うために、全力で自らの数学の力を発揮しました。
「近代看護教育の生みの親」として知られている白衣の天使ナイチンゲールは、死亡統計の改善に尽力しながら医療統計学の先駆者でもあったのです。
彼女が考案した死亡率や平均入院日数の計算方式は、現在の医療統計学にそのまま使われています。
<参考文献>
『ナイチンゲール』(小玉香津子著/CENTURY BOOKS)