オランダ東インド会社は、鎖国下の日本で唯一幕府から交易を許可された海外の組織で、近代化の担い手として大きな存在でした。
それは、交易を通じて江戸から明治にかけて西洋から伝わった科学技術が、日本の近代化の基礎として重要な役割を果たしたからです。
今回は『東インド会社とアジアの海』(羽田正著/講談社学術文庫)を主な参考文献として、株式会社のルーツである東インド会社を中心に人や物の交流と17世紀の世界史を辿ってみたいと思います。
内容紹介
17世紀のイギリス、オランダ、フランスに相次いで誕生した東インド会社。この「史上初の株式会社」の興亡を通して、世界が大きく変貌した200年を描きだす異色作。
喜望峰からインド、中国、長崎にいたる海域は、この時代に「商品」で結ばれ、世界の中心となり、人々の交流の舞台となっていた。
そして、綿織物や茶、胡椒などがヨーロッパの市場を刺激して近代の扉を開き、現代に続くグローバル社会の先駆けとなったのだった。
(出版社書籍紹介より)
目次
大航海時代|海の帝国とアジア海域
17世紀頃までは、アジアとヨーロッパでは陸路(中国~トルコ間)による交易が中心でした。ヨーロッパの国々がアジアの物資を手に入れるにはトルコ商人を通さなくてはなりませんでした。
貿易で国を豊かにしたいと考えていたスペインやポルトガルは、アジアの物資(香辛料、金、絹など)をより安く入手するため、直接アジアに行けるルートを探していました。当時羅針盤が発明され、測量、地図製作の技術が発展したこともあり、新たな海路を開拓するために国は探検家たちを支援しました。
1492年、スペインの支援を受けたコロンブス(1451-1506)が大西洋を横断しインドを目指して新大陸(バハマ諸島)を発見。その後、数回にわたって航海を行いジャマイカ、南アメリア北部、中部アメリカを発見しました。
コロンブスの航路
大航海時代が始まり、海運国であるスペインやポルトガルは船の製造と武器を手に新航路を次々と開拓していきますが、同時に植民地や貿易の勢力圏争いも生じます。
1497年、ポルトガル国王の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマ(1460頃-1524)がリスボン(ポルトガル)を出発し、アフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到着。1502年に再びインドに渡っています。
インドに到着すると、ポルトガルはその後10年余りの間、武力による物資略奪を続け、インド洋海域の主要な港町を次々と征服して「海の帝国」を築いていきました。
しかし国の予算だけでは航海にかかる莫大な費用を賄えないため、多くの商人が出資者となっていたうえ、危険が伴う航海で生き残った乗船員たちが私的な(非認可の)個人貿易を始め、貿易の現地化が進んでいきました。
そのころスペイン国王フェルペ2世はポルトガル国王を兼任し、ヨーロッパ王家間の争いやアメリカ大陸の経営にまで手を広げていたこともあり、東インドでの覇権維持に注力できなくなります。
そんななか、後年スペインから独立するオランダが台頭してきます。
東インド会社の誕生
東インド会社とは、17~18世紀に設立された特権的な貿易会社のことをいいます。
イギリス東インド会社(1600年)に続きオランダ東インド会社(1602年)が創設され、「会社」という組織体で東アジア方面に進出し直接貿易による利益拡大を図っていました。
東インド会社は国から認可された独占権を持つ組織でしたが、国営ではなく民営企業でした。
各国の東インド会社
- イギリス東インド会社:1600年~1858年
- オランダ東インド会社:1602年~1799年
- フランス東インド会社:1664年~1769年 [1]
イギリス東インド会社
新興国イギリスの東インド会社は、エリザベス一世から「東インドとの交易を行うロンドン商人たちの代表と組合」宛ての特許状を得て、正式に国から認可された組織として設立されました。
その後、イギリス東インド会社は貿易をめぐってオランダ東インド会社と競い合うことになります。
しかし航海のたびに資金を集め、航海が終わると売り上げをすべて出資者に還元する方式のため継続的な利益確保が難しく、オランダとの競合は難しい状態でした。
1613年、平戸(長崎)に商館を置きますが10年ほどで閉鎖しています。
オランダ東インド会社
資金提供する商人や金融業者がロンドンのみだったイギリスと異なり、オランダでは北海沿岸都市に拠点を置く貿易組織がすでに複数存在し競合していました。
それらの組織が同時期一斉に品物の入手や販売を行うため、仕入れ価格の高騰や販売価格の下落を繰り返し、利益確保が不安定でした。
そこで安定した利益を得るため、これら6つの組織が合併し、巨大会社「オランダ東インド会社」が設立されます。
1回の航海ごとに資金が出資者に返還されるイギリスと異なり、オランダでは集めた資本は10年間据え置かれ、資本の使い道は会社が決める運営方法をとっていました。
支部名 | 資金分配金額 (単位:ギルダー) |
割合(%) |
アムステルダム | 3,674,915 | 57.2 |
ゼーランド | 1,300,405 | 20.2 |
デルフト ※ | 469,400 | 7.3 |
ロッテルダム | 173,000 | 2.7 |
ホールン | 266,868 | 4.2 |
エンクホイゼン | 540,000 | 8.4 |
オランダ東インド会社の6支部と分配金 [2]
※デルフトは画家フェルメールが住んでいた港町で、彼が当時オランダで盛んに製作された地図を自分の作品の題材に選んだ理由がわかります。
東アジア海域の秩序と日本
13~16世紀、東シナ海から南シナ海にかけて倭寇(わこう)が海賊集団として活動していました。
朝貢(ちょうこう)貿易を望んだ明は、周辺諸国を従属させることで交易を認めており、東アジア海域周辺40ヶ国がこれに従い一定の秩序が保たれていました。
国の方針に従わない官僚や商人は密貿易を行って個人的に利益を増やしていました。(種子島に鉄砲を伝来したポルトガル人を乗せた船も、密貿易船が漂着したものでした。)
ポルトガルの進出はイエズス会の布教活動とも関係しています。フランシスコ・ザビエルは、東南アジアでの3年に及ぶ布教活動で思うように成果を上げられず、新天地の日本を目指しました。
16世紀のイエズス会の布教活動は、貿易と領土獲得の目的も兼ねており、純粋な布教活動ではありませんでした。
そのため、信者が従う先が日本の為政者ではなくポルトガル国王やローマ法王になるおそれがあるとして、徳川幕府はキリスト教を禁止します。
一方オランダ東インド会社は軍事的に脅すやり方はとらず、純粋な貿易商人として活動しキリスト教の布教も行わないことから、交易許可を得ることができました。
オランダは幕府の命令や要求を素直に受け入れ、出島への居住命令にも従いました。
出島のオランダ商館長は毎年江戸への参府を求められ、これが西洋の情報と日本の情報の相互流通に大きく寄与します。
東インド会社が運んだモノ
東インド会社がアジアとの交易で輸入したものは主に香辛料、茶、綿織物でした。
香辛料
なぜ交易品として香辛料(胡椒、シナモン、クローブ、ナツメグ、メイスなど)が珍重されたのか。
著者はその理由を「肉の保存や味付け」(通説)ではなく、医薬品として重要で薬膳料理に欠かせなかったとする説のほうが説得力があり魅力的だとしています。(効用は以下を参照)
- シナモン:食欲増進、消化促進、傷薬
- ナツメグ:船酔い、不眠症、下痢
- クローブ:記憶力回復、吐き気や歯痛の抑制
- メイス:水腫
1707年に創立されたイギリスのフォートナム・アンド・メイソンは香辛料をそのまま売るだけでなく、香辛料を使ったすぐに食べられる食料品の販売を開始。王室や上流階級が主要顧客となり広まっていきます。
茶
オランダ東インド会社の船が平戸から1610年に茶を持ち帰った記録があり、以後しばらく学者の間で茶の効用と危険性について盛んに議論されました。当初は緑茶でしたが、後年紅茶も輸入されるようになります。
イギリスには1630年頃に伝わり、1657年にはロンドンで流行り始めたコーヒーハウスでお茶が提供されるようになります。
トワイニングは1706年(フォートナム・アンド・メイスンの開店1年前)にお茶を提供するコーヒーハウスを開店。上流階級のあいだでも午後にスコーンやビスケットと一緒に自宅でお茶を楽しむ社交的な喫茶習慣が広まります。
綿織物
綿織物はインドや中国産が多く、当初はテーブルクロス、ベッドカバー、カーテン、壁掛けなど主に内装用に使われました。
軽く肌触りがよい、汗を吸収し洗いやすい、染色しやすいなどの利点に加え値段も安かったため、17世紀後半からは衣類の生地にも使われるようになります。
香辛料や茶は当時のヨーロッパの食生活に新しい側面を生み出したもので、既存の製品や産業と共存できましたが、綿織物は衣類を仕立てるという点で絹、毛、麻織物と競合します。
伝統的な織物生産に従事する職人からは、安価で質の良い綿織物が大量に輸入されれば職が奪われるとして抗議や不満の声があがり、各地で反対運動が起こりました。
一方、品質の良い品物を模倣して安く売って利益を得ようとする人たちも現れます。イギリスでは人力ではなく機械で効率的に生産する方法が模索され、紡績機の発明、改良の結果、大量生産が本格化して産業革命へとつながります。
東インド会社の終焉
アメリカの独立
7年戦争で財政難に陥ったイギリスは収益増対策として、植民地への課税を強化。「印紙法」を制定しますが植民地側の抵抗にあい3ヶ月で廃止し、次いで「茶法」を制定します。
茶法は経営危機に瀕していたイギリス東インド会社の救済処置として、植民地での茶の独占販売を認めるものでした。
しかしイギリス東インド会社が輸入した茶が他国からのものに比べて非常に値段が高かったことや、会社が輸入した茶を植民地で独占販売させようとしたことに反発した人々が集結し、1773年、ボストン港に停泊中の船の積み荷(茶)を海に投げ捨てます。(ボストン茶会事件)
これがのちに独立戦争のきっかけとなります。
アダム・スミスの批判
イギリスの経済学者アダム・スミス(1723-1790)は自著『国富論』(1776年出版)の中で東インド会社を痛烈に批判しています。
当時ヨーロッパでは「貨幣こそ富、富こそ国力」とする重商主義政策のもと、自国に富が蓄積されることを最優先に独占貿易が行われていました。
しかしアダム・スミスはこの政策を批判します。自由な市場経済が国と国民を豊かにすると主張するスミスには、国が東インド会社に特権を与え、独占貿易を容認していることが許せませんでした。
独占会社の消滅
18世紀末頃には、産業革命の始まりと自由貿易を求める動きが強くなり、当初常識だった独占貿易というやり方や組織形態が時代に合わなくなりました。
名前こそ「会社」でしたが、それは私たちの知る貿易会社(モノとモノを交換するための会社)とは全く違う、領土支配のための組織でしかなかったのです。
インド統治への批判、経営の腐敗への批判などもあり、200年以上続いた旧体制のイギリス東インド会社は1858年に解散します。
フランス東インド会社も同様の理由で1769年に解散。
オランダは1780年からの英蘭戦争でイギリス軍に商船をだ捕され、交易品を売ることができず資金繰りが困難になります。
経営の無能、腐敗、軍事力の弱体などで1799年、オランダ東インド会社も終焉を迎えます。
おわりに
今回参考にした『東インド会社とアジアの海』は、世界史と絡めながら東インド会社の成立と各国の事情が丁寧に解説されています。
東インド会社は要塞建設、貨幣鋳造、条約締結、植民地管理などの権限も持つ、国から認可された独占組織でしたが、周辺諸国との交流や情報の流通を通じて各国の文化や産業に与えた影響は図り知れません。
国と民間企業との関係や、社会における企業の存在意義を考えるうえで、株式会社東インド会社の歴史は大変参考になりました。
<参考文献>
『東インド会社とアジアの海』(羽田正著/講談社学術文庫)
『「株式会社」長崎出島』(赤瀬浩著/講談社選書メチエ)
『株式会社の世界史:「病理」と「戦争」の500年』(平川克美著/東洋経済新報社))
【出典】
[1] 『東インド会社とアジアの海』(羽田正著/講談社学術文庫)巻末年表 P.387-392
[2] 同書籍 P.89