哲学と聞くと「難解」「ビジネスとは無縁の学問」というイメージを持たれる方が多いかもしれません。
もともと哲学とは「智を愛する」という意味を表すギリシャ語philosophia(フィロソフィア)に由来する言葉で、世界やものごとの根源や本質を探究する学問です。
哲学の祖といわれる古代ギリシャのソクラテスをはじめ、数多くの哲学者が登場し独自の思想を唱えてきました。
そのなかでカントの思考や言葉は、空間、時間、人間を語るうえで多くの示唆に富んでいます。
今回は『カントの生涯 ― 哲学の巨大な貯水池』(石井郁男著/水曜社)を主な参考文献として、カントの人物像や生涯、地理学との関係をたどってみたいと思います。
内容紹介
「カント哲学」が物語で理解できる画期的伝記の誕生。哲学書の最高峰『純粋理性批判』を著したカントとは、どんな人間だったのか?
バイキング精神を受け継いだ少年時代、世界で最初に「地理」教科を始め、天文学では「星雲説」を唱えた青年期、そして壮年期から晩年へ永久平和を呼びかけた偉人。
哲学の貯水池と呼ばれる生涯を活き活きと描く。
(出版社書籍紹介より)
目次
年譜
- 1724年:東プロイセンのケーニヒスベルクで生まれる
- 1732年:フリードリヒ学院に入学。通常の入学年齢は10歳だが、聡明さを買われて8歳で入学した。厳格で規則づくめの教育に反発心を抱き、のちに青年教育を批判する書を記す。
- 1737年:母死去
- 1740年:ケーニヒスベルク大学に入学。ヴォルグの哲学やニュートンの自然物理学を学ぶ。
- 1746年:父死去。大学を卒業
- 1747年:家庭教師を始める。大学教師になるため、大学で学んだ「地動説」と「万有引力の法則」の天体論をより深く研究する。
- 1755年:ケーニヒスベルク大学の私講師となる
- 1770年:ケーニヒスベルク大学で論理学・形而上学の正教授となる
- 1781年:『純粋理性批判』発表
- 1788年:『実践理性批判』発表
- 1790年:『判断力理性批判』発表
- 1802年:『自然地理学』発表
- 1804年:カント死去。享年80歳。
生涯のほとんどをケーニヒスベルクで過ごした。
自然の不思議や異国の事情に興味津々
東プロイセンの境界の中にあるケーニヒスベルク(1923-1939)[1]
1724年4月22日、イマヌエル・カントは東プロイセン(現ドイツ)の首都ケーニヒスベルクで、信仰心が厚く愛情深い母と勤勉実直な馬具職人の父のもとに生まれます。9人兄弟のうち4番目の子供でした。
母親は夕暮れによく子供たちを連れて散歩に出て、「空の星も道端の草花も、すべて神がお創りになったものです」と言っていたといいます。
万物の創造主である神への畏敬の念、自然を愛する心は母親からの影響によるものとカントは記しています。
ケーニヒスベルク大学入学後は、ニュートン力学に興味を抱き熱心に学びました。
自然界の謎を解き明かすため自然学や地質学の書物や研究報告を大量に読み、さまざまな思いをめぐらせて、当時ヨーロッパのある地域で大地震が頻発することを知り、「地震はなぜこのように頻発するのか?」と考えはじめます。
天文学も研究しており、ガリレオの望遠鏡による観察結果、太陽黒点、月面の凹凸などから想像力を駆使した宇宙論『天界の一般的自然史と理論』副題「ニュートンの原理に従って論述した全宇宙構造の編成と力学的起源についての試論」をまとめました。
彼はこの論文で、宇宙の発生を純力学的に解明することを試み、先駆的な宇宙進化論「星雲説」を唱えています。
論文では自然科学の知識をもとづき論理的に説明しながら、一方で宇宙法則の根底には神がこの世界を創造した目的があることを認め、それらを調和融合してまとめています。
カントが提唱したこの宇宙論は、後年ラプラス(フランスの天文学者、数学者)が発展させたことで「カント-ラプラスの星雲説」と呼ばれるようになります。
46歳でケーニヒスベルク大学の哲学教授になり、その後、代表作『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表。それぞれ57歳、64歳、66歳と、晩年ともいえる時期に書き上げています。
当時旅行記がブームだったこともあり、旅行記や見聞録を好んで読み、諸外国の事情に通じていました。読むたびに頭の中の世界がどんどん広がることが嬉しくて旅行記を読み漁り、「哲学の勉強にはどんな本を読めばよいか」とたずねる学生に「旅行記を読みなさい」と答えています。
驚いた学生が「私がたずねたのは哲学の勉強ですよ」というと、「哲学だから旅行記なのだ。人間とは何かを具体的に知ることが、すべての学問の出発点だ」と諭します。
世界初の地理教師
1755年ケーニヒスベルク大学の講師になり、翌年1756年から1796年まで40年にわたり自然地理学の講義を行いました。
カントの講義では旅行記や見聞録を講義資料にしており、学問というよりも世の中にある不思議なもの、美しいものを探し出し、旅行者の知的好奇心を持って探究するような内容でした。
カントは気さくでユーモアと洒落っ気がありました。楽しくわかりやすく説明する彼の講義は人気があり、学生が押し寄せただけでなく、一般公開されると評判を呼び上流社会の男性たちも多数参加しました。
日本を紹介
講義ではエンゲルベルト・ケンベルの『日本誌』を参考にして、日本の国土や気候・風土、文化・政治・宗教、日本人の顔や体の特徴、気質なども紹介しています。
ケンベル(1651-1716)はドイツの医師、博物学者でオランダ東インド会社の船医として1690-1692年に来日。彼の出版物により海外諸国に日本が紹介されることになります。
ケンベルの『日本誌』は英語、フランス語、オランダ語に翻訳され、当時の知識人カント、ゲーテ、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニズムにつながっていきます。
『日本誌』英語版に掲載された江戸の地図 [2]
歴史学と地理学
カントは「歴史学は時間に関して前後して起こった出来事にかかわる。地理学は空間に関して同時に起こる現象に関わる」と考えていることから、自然地理学は空間における対象の現象を問題にする学問といえます。
「歴史学は本来歴史を記述したものではあるが、関連する複数の現象が時間の流れに沿って変化していく様子を記述する地理学にほかならない。
したがって、ある場所で発生した事象がどのような性質を持っていたかを知らなければ、歴史の記述としては不完全だ。」
つまり、歴史学は地理学を土台にして成り立っているのだというのが彼の主張です。
カントの認識論
カントは学生時代、恩師クヌッツェン教授の「大陸合理論」とニュートンの「経験主義」の2つの認識論を学んでいました。
- 大陸合理論:物事は人間の知性で理解される
- 経験主義:大切なのは理屈ではない。何事も自分で経験しなければ理解できない
この2つをどうすれば統一できるかが、学生の頃からの大きな課題でした。
物事を裏表、上下、前後などあらゆる面から考えること、そして自身の「経験・観察・推理」という体験が、のちの『純粋理性批判』発表につながります。
大陸合理論と経験主義をどのように組み合わせればよいか、11年かけて考え抜き、「物事が起きれば、まず事実に時間と空間の網をかけ、さらに因果関係を探ろうとする。それが人間だ」と語っています。
- 「時間」「空間」「因果関係」は生まれつき人間の頭の中に備わっている特殊な認識方法である。
- 時間や空間は具体的な事実ではなく、いつどこで経験したかを考える思考の形式である。
- 人間にはこの思考方法が生まれつき備わっている。
これがカントの認識論です。
内容なき思想は空虚である。概念なき直観は盲目である。
(『純粋理性批判』(カント)より)
形式だけで中身のない思考はむなしい。概念(考え)がない感覚だけのものは知識とはいえないということなのでしょう。
おわりに
直観(感性)⇒概念(悟性)⇒理念(統覚)というプロセスをたどるのが彼の認識論の中心にある考え方です。
これは『対象を見たり聞いたりしてそのまま情報を受け取る ⇒受け取った情報にもとづき「いつ?どこで?なぜ?」という問いを立て考えて答えを導き出す ⇒その中から関連性のあるものをつなげて統合する』プロセスのことを意味しており、データ処理と共通する工程です。
「何かが見えるのは動物も同じだが、人間は単に見えるだけでなく対象をより深く見ようとするから正確に見えるのだ」という彼の言葉は、AI機械学習による画像認識技術が今後より進化していく世界で人間はどうあるべきかを問うているように感じます。
<参考文献>
『カントの生涯 ― 哲学の巨大な貯水池』(石井郁男著/水曜社)
『カントがつかんだ、落ちるリンゴ ― 観測と理解』(渡辺嘉二郎著/オーム社)
『カントの世界市民的地理教育』(広瀬悠三/ミネルヴァ書房)
『カント全集 第15巻 自然地理学』 (カント著/理想社)
【出典】
[1] Germany's province of East Prussia from 1923 to 1939, with Memelland occupied by Lithuania since 1923
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:East_Prussia_1923-1939.png
[2] ヨハン・カスパー・ショイヒツァー作成の江戸の地図
First Map of Edo (Tokyo) published in Europe. Made by Johann Caspar Scheuchzer (1702-1729) using a Japanese woodblock-print map by Ishikawa Ryusen.