鎖国下の日本において、オランダはヨーロッパで唯一日本と交易のあった国で、毎年1回3ケ月ほど長崎(出島)に滞在し、将軍に謁見するために江戸にも行っていました。
歴代のオランダ商館長は滞在中、業務報告と日記を兼ねたものを細かく記しており、その記録は今も保管されています。
『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(フレデリック・クレインス 著、磯田道史 解説/講談社現代新書)は、17世紀半ばから19世紀初め頃まで商館長が記した膨大な記録の中から災害に関する内容を取り上げ解説したものです。
今回は江戸の災害について私の考察も交えつつ、この書籍をご紹介したいと思います。
内容紹介
地震や火事の向こうに日本社会が見えてくる!
明暦の大火、元禄地震、雲仙・普賢岳の噴火、京都天明の大火……
平成、令和の時代と同じように災害の多かった江戸時代。人びとはいかに災害を生き抜いたのか?
歴代のオランダ商館長の克明な記録をもとに、災害列島を生きる日本人の姿に迫る。(出版社書籍紹介より)
著者 クレインス・フレデリック:
1970年ベルギー生まれ。国際日本文化研究センター准教授。専門は日欧交流史。著書「江戸時代における機械論的身体観の変容」「十七世紀のオランダ人が見た日本」など。
目次
時代背景
室町時代から安土桃山時代にかけて、西欧ではスペイン、ポルトガルが黄金期を迎えており、金銀などの入手を目的に日本と交易をしていました。
この交易(南蛮貿易)によりキリスト教の布教活動も持ち込まれ、キリシタン大名が出現します。豊臣秀吉はキリスト教を認め、キリスタン大名を多く召し抱えていました。
秀吉の朝鮮出兵では大量の大名が動員されますが、その際先頭に立ったのがキリスタン大名で、それはスペインが朝鮮半島や中国大陸を目指した思惑、戦略とも重なっていました。
この戦争(文禄・慶長の役)は秀吉の死とともに終結しますが、多額の戦費を消耗したキリスタン大名たちの衰退につながりました。
そのころ西欧ではスペインから独立したオランダが勢力を伸ばし、東インド会社を設立しアジアに進出してきます。
そのなかで、徳川家康はキリスト教を禁止し鎖国令を敷きますが、キリスト教の布教はせず交易だけを目的とするオランダとの関係は明治の開国まで続きます。
この書籍にある記録は、このあたりの時期から始まります。
年譜
- 1609年:オランダ東インド会社が初来日。当初、平戸(長崎)で自由な貿易を行っていた。
- 1614年:出島(扇状の人工島)を拠点としていたポルトガル人が追放となり、オランダ人が平戸から出島に移転。オランダ人は幕府の厳重な監視下に置かれた。
日本の輸出品は金銀銅や漆器、輸入品は生糸、絹織物、砂糖、薬品などでした。貴金属の流出を防ぐため徐々に貿易量が制限され、17世紀には5~10隻/年だったオランダ船の数が、1790年には1隻/年にまで減りました。
来航するオランダ船は本土からではなく、インドネシアのバタヴィア(東インド会社アジア本部・ジャカルタの旧名)から出航し、日本に到着後3か月の貿易期間を終え、またインドネシアに戻っていました。
オランダ人は出島から出ることは許されませんでしたが、来航のたびに、江戸の徳川将軍に謁見(参府)し土産物を献上することを義務付けられていました。
商館長は貿易記録、会計書類のほか、出島での勤務日誌、江戸参府中の日記をつけることを義務付けられており、災害に遭った際も自分たちの状況のみならず、市中や人々の様子まで細かく記録されています。
明暦の大火(めいれきのたいか)
明暦の大火は、明暦3年旧暦1月18日~20日(1657年3月2日~4日)、2日間で江戸の大半を焼き尽くした大火災です。
外堀以内のほぼ全域、江戸城(天守閣・本丸・二の丸)や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数は諸説ありますが6万人とも10万人ともいわれています。この大火で焼失した江戸城天守は、その後再建されることはありませんでした。
この年のオランダ人商館長ワーヘナール一行は2月16日に江戸に到着し、2月27日に徳川家継に謁見し、江戸の人々との面会をこなしながら2度目の謁見を待っていました。
3月2日2時ごろに火災が発生し、一行は江戸市中を逃げまどいます。記録には、火災がどんどん広がっていくなかで彼らがとった行動、人々の様子や惨状が生々しく記されています。
「しかし、恐怖に怯える避難民たちが大勢いたので、我々はまったく進めなかった。彼らはこのような火災の時にその荷物を大きな櫃に入れて、それを砲架車に似たような四つの車輪がついた荷車に載せて運ぶ習慣を持っているからである」
「荷物を持っていなかった人々は堰や包みの上をよじ登って、逃げる道を探していた。我々も同じことをやって、最終的には仕方なく差し掛け小屋や屋根の上に登った。そうしなければ、全てを燃やし尽くす炎が我々に追いついて、我々を灰にするのは確実だった。」
「奉行所の人は、自分の安全よりも我々の安全を大事にしてくれた。彼らの助けにより、我々はより広い場所にたどり着いた」
「すべてを破壊し飲み込む炎が絶えず上昇し、地獄の炎であるかのように次第により広範囲にひろがっていく光景を見た」
『オランダ商館長が見た江戸の災害』より
一行は焼け出された宿に戻り、3月7日に江戸を立ち4月7日に長崎に戻りました。
かつて経験したことのない惨劇に、ワーヘナールは「復興に20年かかるのではないか」と記しています。
彼はその後東インド会社のインドネシア本部に勤務し、喜望峰総督を経て1668年オランダに戻り、翌年に亡くなっています。
1669年に彼の記録の写しを得たアルノルドス・モンタヌスが『東インド会社遣日使節紀行』を出版しています。明暦の大火では10万戸以上が消失したとされており、1666年に発生したロンドン大火との比較も記述されています。
『東インド会社遣日使節紀行』は英語、フランス語、ドイツ語に翻訳され、発生から12年の歳月を経てヨーロッパに日本の災害状況が伝えられました。
『東インド会社遣日使節紀行』
(1669年、アルノルドス・モンタヌス著)の挿絵にある明暦の大火 [1]
なぜ江戸に火事が多かったのか
江戸で大火とされる件数は49回。京都9回、大阪6回と比べても圧倒的に多かった一番の理由は、木造長屋がひしめく過密な都市構造にありました。
寝煙草、調理や照明器具からの失火、放火などが主な原因ですが、板葺きの長屋が多い過密都市江戸において乾燥、強風などの気象条件が加わると、短時間で広範囲に延焼が広がったのでしょう。
度重なる自然災害や火災で、倒壊後すぐに再建できるよう深川地区に資材が備蓄されていたとはいえ、2~3か月で5千軒がすっかり再建されていたと記録にありますから、驚くべき復興スピードです。
シーボルトの活躍
オランダとの交易を通じて、西洋の医学や科学が日本に紹介され、蘭学として花開いていく過程で、その発展に寄与した人物として有名なのがドイツの医師・博物学者シーボルト(1796年~1866年)です。
彼は1823年にオランダ商館付の医師として来日、1824年出島の外に鳴滝塾を開き、当時最先端の西洋医学の教育を始めます。
日本の研究を目的に来日したシーボルトは、全国から弟子を集め、文化生活様式や動植物、地理など多分野にわたる情報を収集しました。
収集した情報の中には伊能忠敬の日本地図(伊能図)も含まれていました。
日本地図の完成にあたり、幕府の天文方・天文学者でありシーボルトの門下生だった高橋景保(たかはしかげやす:1785年~1829年)は全国測量を監督するなど熱心に尽力しました。
1828年シーボルトが任期を終えて帰国する際、暴風雨で先発船が難破します。幕府が積み荷を調べた際、国外に持ち出し禁止の品物(日本地図など)が含まれていることが判明し、多くの弟子が投獄。高橋景保は投獄中に死亡します。(シーボルト事件)
シーボルトは出島に1年軟禁されたのち国外追放となり、オランダに帰国。日本への再渡航を禁止されます。
シーボルトは文学的、民族学的コレクション(5,000点以上)のほか、哺乳動物標本(200)・鳥類(900)・魚類(750)・爬虫類(170)・無脊椎動物標本(5,000以上)・植物(2,000種)・植物標本(12,000)など膨大な数のサンプルを持ち帰りました。
その後、収集した資料やサンプルをもとに研究を重ね『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などの本を出版。30年後、幕府に招かれて再度来日し西洋の学問を教えています。
おわりに
当時全盛時代だったオランダが地図製作でも他国をリードしていたことはこちらでも触れました。(余談ですが、オランダの画家フェルメールの『地理学者』『天文学者』の男性が着ているガウンは交易で日本からオランダに渡った着物です。)
歴代商館長による膨大な記録を含め、鎖国時代の出島を通じたオランダとの情報流通が、その後の日本と海外諸国のさまざまな学問の発展に大きな影響を及ぼしたことをあらためて感じます。
【参考文献】
『オランダ商館長が見た江戸の災害』(フレデリック・クレインス 著、磯田道史 解説/講談社現代新書)
【画像出典】
[1] The Great Fire in Edo 1657. Engraving in Arnold Montanus: Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oostindische Maatschappy in't Vereenigde Nederland aan de Kaisaren van Japan. 1669. (Collection W. Michel, Fukuoka)