17世紀オランダで活躍したヨハネス・フェルメールは繊細なタッチと美しい光の表現を特徴とする画家で、『真珠の耳飾りの少女』が代表作として知られています。
彼が生涯に描いた作品(現存して確認できる作品)のうち9作品に地図が描かれています。
今回は『フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著、黒木章人訳/原書房)を主な参考文献として、フェルメールの絵画と地図の関係について考察してみたいと思います。
フェルメールと天才科学者:17世紀オランダの「光と視覚」の革命
内容紹介
17世紀、望遠鏡と顕微鏡という新たな光学機器と理論、そして肉眼を超える驚異的な観測能力が大きな引き金となって「科学革命」が起こった。
当時の資料からフェルメールとレーウェンフックの生涯を克明にし、レンズの製造法から視覚理論の歴史、そして実際にフェルメールが各作品に用いた遠近法と光学を詳細に解説。
(出版社書籍紹介より)
著者 ローラ・J・スナイダープロフィール:
アメリカの歴史家、哲学者、作家。ジョンズ・ホプキンズ大学で哲学の博士号を取得し、セント・ジョーンズ大学で21年にわたって教鞭をとった。
目次
年譜
- 1632年:ネーデルラント連邦共和国(現・オランダ)のデルフトに生まれる。
- 1647年:絵画修行を開始
- 1648年:ウェストファリア条約締結され、オランダ独立が正式に承認される。
- 1652年:第一次英蘭戦争
- 1653年:結婚(子供は11人)
- 1665年:第二次英蘭戦争
- 1672年:第三次英蘭戦争
- 1675年:デルフトにて死去。享年43歳。
作品の特徴
彼の作品は生前高い評価を受けていましたが、個人のコレクションとなったものが多いこともあり、死後200年「忘れられた画家」とされていました。
しかしフランスの美術評論家がフェルメールを含む巨匠たちの大回顧展を開催し、そののちフェルメールに関する論文を発表したことをきっかけに再び評価が高まります。
今では巧みな光の表現、独特の色使いで日常風景をリアルに描いた彼の作品は多くの人々に愛され、国内外で人気の高い画家の一人となっています。
地図へのこだわり
フェルメールがこだわったのは光の表現だけではありませんでした。後期の作品には、しばしば地図や地球儀が登場しています。
17世紀前半、オランダは貿易・海運大国として繁栄し、地図はその黄金時代を象徴するものでした。
当時オランダが世界的にも地図製作・出版の中心地となっていたのには以下のような理由があります。
- 海運国家だったオランダにとって正確な地図・海図の製作が必要不可欠だった
- 地図の印刷法が木版から銅版に移行した
- 金属加工術に習熟した職人がオランダに多くいた
印刷技術が発達して、地図会社がそれまでの地図を色鮮やかに印刷し再販するようになると、比較的安価な室内装飾品として壁掛け地図が流行しました。
参考
16~17世紀、オランダはメルカトルをはじめ多くの有名な地図製作者を輩出しました。
メルカトルはフリシウスの地球儀・天球儀の製作に協力し、地理学者としての地位を確立。
彼の地図帳は「アトラス」として、ヨドクス・ホンディウス(地図製作者)により各国語に翻訳され出版されました。
オランダが独立国となり市民が社会の中心になってくると、フェルメールの顧客は王侯貴族から上流階級市民へと変わります。これに伴い、彼は歴史画から、彼らが好む風俗画(日常風景)へとジャンルを転換しました。
作品に地図が多く描かれているのは、こうした背景によるものでしょう。
緻密さを特徴とする彼の作品では地図の再現性も高く、製作者や製作年代も特定されています。
『士官と笑う娘』
この地図は、ヴァン・ベルケンローデ(測量技師・地図製作者)が製作した地図を、ヨアン・ブラウ(地図製作者)が出版したものです。「オランダ共和国」全図が描かれています。[1]
『リュートを調弦する女』
1613年にヨドクス・ホンディウス(地図製作者)が最初に製作・販売した地図を、ヨアン・ブラウが1659年に再販したものです。オランダの地図が細かく描かれています。[2]
『青衣の女』
元の地図は『士官と笑う女』と同じですが、色味や質感も異なるので、元図が同じことに気付きづらいですね。[3]
『水差しを持つ女』
ハイク・アラルト(地図製作者)による「ネーデルラント17州」の地図が描かれています。[4]
ネーデルラント17州は16世紀に存在した、17の諸侯領から成る国家群です。
『絵画芸術』
この地図にも「ネーデルラント17州」が描かれています。
最上部のタイトルから製作者が「クラース・ヤンス・フィッセル」(地図製作者)であることがわかります。
遠目には模様のように見えますが、地図の両端に描かれているのはオランダの主要都市の風景です。[5]
『天文学者』
モデルとなった男性はアントニ・ファン・レーウェンフック(科学者)が有力候補とされていますが、バールーフ・デ・スピノザ(哲学者)とする説もあります。
天球儀はヨドクス・ホンディウスが製作したもので、作品の中では星座まで精密に再現されています。
家具の扉には星座早見盤がかかっています。
手元にはアドリアーンスゾーン・メチウス(地理学者・天文学者)の教本『星の研究と観察』、そして天球儀とタペストリの間にはアストロラーベ※ が置かれています。
※アストロラーベは太陽・月・星の位置観測や方位・時刻の測定、三角測量などに利用する円盤型の天体観測機器です。小型のため船に持ち込まれ、航海中の時刻・位置測定にも使われていました。[6]
『地理学者』
この男性も『天文学者』と同じ人物がモデルとされています。
家具の上には、晩年の作品『信仰の寓意』と同じ地球儀が置かれています。
壁には海図が掛けられています。机に広げられているもの、巻いた状態で床に置かれているものも地図でしょう。
手には製図に使用するディバイダーを持っています。[7]
見えない世界に挑んだ画家と科学者
『士官と笑う女』『リュートを調弦する女』『青衣の女』『絵画芸術』には地図が大きめに描かれています。
『天文学者』『地理学者』にはそれぞれ地図と地球儀(天球儀)が描かれており、地図が見えている範囲は少なめですが、地図のほうがより大きな意味を持っています。
それは天文学者や地理学者も地図を製作し、それを利用する科学者だったからです。
当時社会的に高い地位にあった科学者や画家たちは、最先端の光学機器を使ってさまざまな研究や実験を行っていました。
レーウェンフックは自作の顕微鏡を使って初めて微生物の観察に成功し、微生物学、医学の発展に大きく貢献したことから「微生物学の父」と呼ばれています。
ミクロの世界で動き回る生物の観察に心おどらせ、克明に絵で記録していきました。
一方、フェルメールは光学機器のしくみを利用して光の特性を究明し、見えないものを可視化する試みを絵画に投影しようとしました。
光を自在に操作することで人物の表情や物体の影、質感、光の拡散をリアルに表現し、あたかもそこに存在しているような自然な情景を描き出す画風は、こうして創られていったのです。
ヨアン・ブラウ
ヨアン・ブラウは17世紀のオランダを代表する地図製作者です。
父のウィレム、息子のヨアン、その息子ヨアン二世の三代にわたりオランダのみならずヨーロッパで地図製作において絶大な影響力を持っていたブラウ家は、1633年に東インド会社公認の地図製作会社に指名され、地図帳出版事業をグローバルに展開していました。
ブラウ世界図
この壁掛けの世界地図は、30年戦争(1618~1648年)終結時のウェストファリア条約締結(オランダ独立)を記念してヨアン・ブラウが製作したもので、現在東京国立博物館に所蔵されています。[8]
NOVA TOTIVS TERRARVM ORBIS TABVLA(新地球全図)という表題のもと、両半球図の他に天体運行図や古代の世界図などを配している。
地図の下部にはオランダ語の世界地誌を載せるが、これを翻訳したのが桂川甫周の『新製地球万国図説』である。
図の各所には事物を説明した墨書の貼紙がある。
宝永5年(1708)に日本に潜入し逮捕されたイタリア人宣教師シドッティ(1668~1715)を新井白石(1657~1725)が尋問した際、「阿蘭陀鏤刻の万国の図」を見せたところ、シドッティが珍しがったという逸話が、白石の著書『西洋紀聞』の中にあるが、この図に当るものが本図であると考えられている。
明治11年(1878)、当時の陸軍砲兵工廠から博物局が展示のため借用後、明治42年(1909)に同所により寄贈された。
世界的に見ても稀少な図である。
(国立文化財機構ウェブサイトより)
フィッセル改訂ブラウ世界図
ブラウ世界図をフィッセルが改訂し、F.デ.ウィットが出版したもので、こちらも東京国立博物館に所蔵されています。
ブラウ世界図と比べると、中央にルイ14世の肖像画が入り、東アジアの部分は新知見をもとに改められ、図中には日本語の貼紙注記が多く見られます。
江戸幕府旧蔵品と考えられています。 [9]
フィッセル改訂ブラウ世界図
これは東京国立博物館所蔵の『フィッセル改訂ブラウ世界図』を模写したもので、現在神戸市立博物館に所蔵されています。
作者は不明ですが、江戸時代に壁掛けの世界地図がもたらされていたことを証拠づける貴重な地図です。
この地図の来歴は以下のとおりです。
小田原藩主 大久保家伝来 → 池長孟 → 1951年 市立神戸美術館 → 1965年 市立南蛮美術館 → 1982年 神戸市立博物館所蔵 [10]
『ブラウ世界図』のエピソード
ブラウ製作の世界図は、オランダ東インド会社を経由して江戸幕府に献上され、現在は東京国立博物館に所蔵されています。つまり、オランダ→長崎→江戸と場所を移動したことになります。
1672年ブラウの地図印刷工場は火災に遭い、地図原版の多くが焼失したので、日本に現存する『ブラウ世界図』は貴重な一枚に数えられます。
おわりに
フェルメールとレーウェンフックは同じ年、同じ町で生まれ、ともに当時オランダで起こった「視覚革命」の中心人物となりました。
顕微鏡、望遠鏡、カメラ・オブスキュラ(カメラの前身)などレンズの応用形態は異なりますが、肉眼で見えないものを見て特性を見つけ出し、絵に写し取るという原理は同じです。
フェルメールは「地図に魅入られていた」といわれていますが、見たことのない国々や世界全体を一枚の絵で表わす地図という表現手法に強い関心を抱いていたのではないでしょうか。
模写ではなく、いつか自分でも地図(原版)を製作してみたいと思っていたかもしれません。
画家は芸術の科学を学ぶべし。科学の芸術も学ぶべし。五感を磨くべし。そして何よりも「ものを見る眼」を極めるべし。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
【参考文献】
『フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』(ローラ・J・スナイダー著、黒木章人訳/原書房)
『フェルメール 光の王国』(福岡伸一著/木楽舎)
『フェルメール 作品と画家のとっておきの知識』(千足伸行監修/河出書房新社)
『地図の歴史 世界篇・日本篇』(織田武雄著/講談社学術文庫)
『古地図セレクション』2000神戸市立博物館編
【画像出典】
[1]『士官と笑う女』所蔵:フリック・コレクション(ニューヨーク)
[2]『リュートを調弦する女』所蔵:メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
[3]『青衣の女』所蔵:アムステルダム国立美術館(アムステルダム)
[4]『水差しを持つ女』所蔵:メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
[5]『絵画芸術』所蔵:美術史美術館、ウィーン
[6]『天文学者』所蔵:ルーヴル美術館(パリ)
[7]『地理学者』所蔵:シュテーデル美術館(フランクフルト)
[8]『ブラウ世界図』所蔵:東京国立博物館
[9]『フィッセル改訂ブラウ世界図』所蔵:東京国立博物館
国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9359?locale=ja)
[10]『フィッセル改訂ブラウ世界図』所蔵:神戸市立博物館