~東京 市ヶ谷、神奈川 川崎編 1982-2004~
研究所を辞め、会社設立を手伝うことに
社会人2年目の夏、TLヤマギワ研究所の1階に、コンピュータを利用した建築設計支援システム(CAD)を販売する会社が設立され、立ち上げを手伝うことになりました。
ここで創業者の長島さんと出会い、その後の私の人生が決定付けられることになりました。
大学院を卒業する時、研究のためには社会の実務を経験することが大事だと思い、「3年ぐらい外の世界を見てきます」と指導教官に告げて就職しました。
ですから、照明の研究所での仕事にそれほど未練はなく、未経験だったコンピュータの世界に何の考えもなしに飛び込みました。
私にとって未知の分野であったコンピュータの進歩は著しく、現在に至るまで飽きることなくチャレンジを続けてこられました
好景気の波に乗って順調に成長
当時スタートアップ企業は5年5億円の壁と言われていましたが、幸い2年目から大型商談が続きました。
建設バブルの時期でもあり、大手ゼネコン、設計事務所などに建築CADを導入いただき、その後10年間、会社は順調に成長を続けました。
こうして3年の腰かけ就職のつもりが、40年にも及ぶことになりました。
会社が設立されたのは1981年の夏。
もともとは木造2階建の幼稚園だったものを照明のショールームとして使用していたのですが、その1階部分を改装してコンピュータルームが作られました。
商談時のデモで最もお客さまの目を引いたのが大型フラットベットプロッター。
1トンもある大きな箱の中で、A0サイズの図面を高速に描画していくこの機械を、皆さん驚いた様子で見入っていらっしゃいました。
このプロッターを設置するために木造の床をはがして土台工事をしたり、市販のワープロを改造して日本語入力機を作ったり、理容室で使われる昇降台(足で踏んでイスの高さを変えるもの)を扱っているメーカーにグラフィック端末用の机を特注したりと、楽しい試みをたくさんしたことが懐かしい。
その後もそういった取り組みの伝統が会社に残っていることを感じることがあり、うれしく思います。
バブル崩壊で難局に直面
1990年代に入ると建設バブルがはじけ設備投資が停滞し、安価なパソコンの時代に突入。
会社は急激に売り上げが落ち込み、10年目の売上を超えるのに、その後20年の歳月を要しました。
「Cash flow is more important than your mother !」これは長島さんの教えです。
会社に現金はなく、扱っている機器は海外製品のため納期も遅く、さらに契約時に30%支払請求されるという厳しい状況でした。
ただそんな中でも、仕事において営業、技術、開発など何でも経験できたのはとても幸運なことでした。
川崎へ移転
その後時代のニーズに合わせて事業は建築CAD、土木CADから空間情報システムGISの提供へと変わり、本社社屋も社員の増加に伴い市ヶ谷から千駄ヶ谷、品川、川崎へと移転しました。
川崎に移ることになった時、内装設計を建築家 隈研吾氏にお願いできたこと、27階の最上階で天井高が3mと他階より高く広々とした豊かな空間を手に入れることができたのは幸運なことでした。(posted by Shoichi Mihara)