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18世紀、微積分学をいち早く教科書として編集した才媛
Maria Gaetana Agnesi
数学上の学識は、イタリアおよび彼女の世紀の栄光なり
ミラノ市にあるピオ療養院正面、記念の隅石に刻まれた銘である。ミラノ師範学校には、彼女の名前をつけた奨学金が設けられている。
彼女こそ、マリア・ガエタナ・アグネシ(Maria Gaetana Agnesi)。1718年5月16日、ミラノで生まれた。
英才教育を受ける
ボローニャ大学の数学教授であったマリアの父は、母とともに娘の教育に力を注いだ。マリアは5歳でフランス語、9歳までにラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語をマスターする。
マリアの10代は、20人の弟たち(マリアは21人兄弟の一番上)の家庭教師をすることに費やされた。この間、彼女は数学に邁進していった。
ニュートン、ライプニッツ、フェルマー、デカルト、オイラー、ベルヌーイらの数学を次々とマスターしていった。
すべての時代を通じて、最も優れた女性学者の一人
このような事情は、当時のイタリアに女性の学問進出の自由さがあったことを物語っている。
欧州の他の場所では、14世紀から16世紀のルネサンス以後でさえ女性に学問の自由はなかった。
フランスとドイツでは女権反対運動が盛り返し、16世紀のイギリスではヘンリー8世は修道院の制度を廃止、エリザベス1世も女子教育のために特に何もしなかった。
しかしイタリアは違っていた。
幾人かの女性が博士号をとり、ボローニャやパヴァアの大学で教授になる者もいた。中でもマリアはすべての時代を通じて最も優れた女性学者の一人といわれる。
サロンに集まる知識人を圧倒
10代のマリアは、数学と兄弟の家庭教師の他にもう一つ特別な環境の中にいた。アグネシ家は知識人の集合場所──サロンであった。父ピエトロが選んだ人々が書斎に集まり研究集会が開催された。
そこに同席させられたのが自慢の娘マリアであった。
ある集まりではヨーロッパ中から集まった30人が円形に座り、マリアに質問していったという。参加者によりそのときの様子が次のように記録されている。
…彼女(マリア)は、私たち同様、それらについて話す準備をしていなかったにもかかわらず、すべての問題について驚くほど見事に話した。
彼女はサー・アイザック・ニュートンの思想に深く傾倒していた。彼女の年齢で難解な問題についてあれほど論じられるのは素晴らしいことだ。
彼女の知識の広さと深さについて随分驚いたが、彼女がラテン語をあのように純粋にすらすらと正確に話すことにはもっと驚いた。
こうしてマリアの10代は数学と弟たちの世話とサロン、母の死後は家事に費やされた。マリアは未婚のままだった。
30歳で『解析学』を完成
1738年、20歳のマリアはサロンでの討論を基にした『科学論』(Propositiones philosophicae)という自然科学と哲学を融合した論文集を出版した。
同時期、マリアはある闘志を燃やし始めていた。
微積分学についての教科書を著すことだ。寝ても覚めても難問との格闘を続けた。果たしてこの仕事に10年という時間が費やされた。
1748年、30歳のマリアは『解析学』(Analytical Institutions)を完成させた。
はじめは自分の楽しみのためと弟たちが使う教科書のためにと書き始めたが、出版されたこの本は四つ折版2巻にもなる大論文となった。
弟たちの教科書となったことはもちろんだが、弟たちよりも驚いたのが学界だった。
初期のロピタルの微積分学の教科書以来初となる総合的教科書は、有限・無限解析学について網羅された内容で、読む者を圧倒した。
微積分学の教科書がなかった当時、ニュートンの流率(fluxion)、ライプニッツの微分法など解析に関する研究はいろいろな本に散在していた。
マリアは海外書籍の中にも散在していた内容を2冊の本に集約した。ここに『解析学』の大きな価値がある。
アグネシの魔女
『解析学』の第1部は有限量の解析を扱い、円錐曲線を含む軌跡の作図、曲線の極大・極小、接線、曲率について基本的問題を論じた。
第2部は無限小解析──微分法。
第3部は積分法を扱い、関数のベキ級数展開を論じた。
とりわけ『解析学』の中で異彩を放つ研究が「アグネシの曲線」と呼ばれる (x2+c2)y-c3=0 で表される曲線である。
この曲線はもともと17世紀のフェルマーが研究しており、イタリア語でversieraと呼ばれていた。ラテン語で「廻る」という意味のvertereが語源である。それとともにイタリア語でavversiera「悪魔の妻」の略語でもある。
これがイギリスで英訳されたときに「魔女」と誤訳されたことで「アグネシの曲線」は「アグネシの魔女」と呼ばれるようになった。
『解析学』はフランス語、英語にも翻訳され教科書として広く使われた。マリアは、ボローニャの科学アカデミー会員に選出され、ボローニャ大学の名誉教授にも任命された。
44歳以降、マリアは貧民たちを助ける慈善事業に身を捧げることになり、それは1799年1月9日、81歳で永眠するまで続いた。
彼女の死後百年の記念碑に記されたのが冒頭の銘である。