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アイデンティティとのせめぎ合い|地図注記の表記

略記は重要

民間の道路地図や都市地図には、実に多種多様な目標物が注記として配置されている。

地図上の情報なものだから、現地の情報が重要であり、現地にあるがままの事実(看板や表札、標識など)を引き写して表記・表示すればよいのだろうか。

当該の地物が施設等の場合は、その所有者、管理者が主張・自称する名称や表記が正式なものだから、それをそのまま寄せ集めて地図上に表記すればよいのだろうか。

当然ながらそう単純にはいかない。電話帳データをばらまいても決して地図にはならない。

とりわけ気を使うのが「略記」である。

特に地図の密部では注記を置くスペースが限られるため、冗長な表記のまま多くの注記を表示すると、同時に表示できる注記量が減ってしまう。

密部でなくとも、冗長な注記は視認性や識別性を低下させ、特に実用用途の道路地図では情報をすばやく読み取る使命に反する。

個々の注記の文字数(文字列の長さ)は、一定の範囲に収まっていないと、注記をシークエンシャルに目で追いかける際に障害となる。なにより、1枚の地図を仕上げる際、統一感を欠いて美しくない。

公的機関では正式名称が冗長なものが多く、「独立行政法人○○○○○機構○○○○研究センター○○○支所」というのもあり、特に対応が必要である。

こんな長々とした注記がひしめいている地図を見る気になるだろうか。

略記原則

そこで昭文社では、地図記号(学校マークや郵便局マークなど)との組み合わせでさまざまな略記原則を定めている。

「○○県○○市立○○小学校」であれば「○○小」、「○○郵便局」は「○○局」となる。「東京農業大学第一高等学校」という注記であれば、これは人口に膾炙しているかと思われる「農大一高」とさせていただければ、というあんばいである。

正式な表記とは

「何が正式か」というのも難しい場合が多い。

以前、茨城県にある「龍ヶ崎市」について「龍」の字の表記が問題になったことがある。

昭文社では、この種の字形問題については当用漢字・常用漢字の趣旨にもとづき、分かりやすさを重視して簡略字体優先の原則的立場をとっている。

同じ地名語源に由来する地物は、1枚の地図の上に表示する以上、なるべく統一感をもって表記するのが地図編集者に必須の立場である。

それで以前は同市一円の注記を「竜ヶ崎」という表記に統一していたこともあるが、その後地元のご意見を踏まえ、市名、市関連施設に限り「龍」の字に統一する方針としている。

しかし、現在でも市内を通る関東鉄道などは路線名や駅名に「竜ヶ崎」を採用している。なかなか一筋縄でいかない。

大事にしたい地物の個性

このように地図編集者にとっては、表示する注記を地図編集の名のもとに統一したり略記したりするのが宿命だ。

その一方で、当該の地物のそれぞれには、それにかかわる人々の思いが表わされているため、個々の地物が持つ個性や主張の大切さを忘れないようにしなければならない。

ところで、詩人の石垣りん(1920-2004)に代表的詩集『表札など』(1968)がある。

表札など―石垣りん詩集

その中でも人気の高いのが「表札」という詩である。

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まつても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私はこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん
それでよい。

『表札』より

誰にもおかすことのできない強靭な精神の気高さ、それでいて何とも清々しい謳いぶりである。

筆者自身、くじけそうな時などこの詩を声に出してうたってみると無性に勇気がわいてくる。

そして地図編集者としては、地図上の個々の地物はすべて「自分の住むところには自分で表札を出すにかぎる」というアイデンティティを持っているのだ、とひそかに自戒するのである。

【参考】『石垣りん詩集 表札など』(2000年3月:童話屋より復刊)

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飯塚新真(いいづかにいま)様

東京生まれ。1986年、昭文社入社。編集部都市地図課、大阪支社勤務を経て、地図編集部情報課長、SiMAPシステム部長、地図編集部長を歴任。現在、ソリューション営業本部長。

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