ローマの風景や空想的な建築画で知られるイタリアの建築家・版画家、ピラネージは『牢獄』や『ローマの景観』をはじめ1,000点にも及ぶ作品を残していますが、実際に手掛けた建築の数はわずかでした。
今回は書籍『ピラネージの世界(建築巡礼)』(岡田哲史著/丸善株式会社)を参考に、ピラネージが活躍した当時の時代背景や彼の作品を辿ってみます。
内容紹介
18世紀のイタリアを代表する建築家の作品をとりあげ、後世に与えた影響と創造の精神を探る。多くの未発表の写真や図版で構成し、時代を越えて語りかけるピラネージとその世界を紹介する入門書。(出版社書籍紹介文より)
著者 岡田哲史氏のプロフィール:
建築家。株式会社岡田哲史建築設計事務所代表、千葉大学院工学研究科准教授
目次
ピラネージの年譜
- 1720年10月4日
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)はヴェネツィア共和国近くにあるメトレス領のモリァーノという小さな町に生まれました。石工職人だった父親の影響もあってか、幼い頃から建築に興味を抱いていました。その後、建築家マッテオ・ルッケージ(母方の叔父)のもとで本格的に建築を学びます。 - 1740年
ヴェネツィア大使がローマに赴く際、旅先の出来事をスケッチする絵描きが必要となったことで、大使随行を指名され初めてローマを訪れます。(当時は手頃なカメラがなかったので写真の代わりに絵で記録していました。)公務を終えたピラネージは、そのままローマに滞在し、好きな考古学の勉強を続けることを決意。そこでローマでの生活の糧を得るため、風景画(ローマの名所を描いた絵はがきサイズの銅版画)を描き売り歩くようになります。 - 1743年
作品集をまとめた『建築と透視図法の第一部』を出版。やがて建築のリアリティや規範を無視した虚構性の強い作品(空想建築)を描き始めます。 - 1745年
『牢獄の空想的創作』を出版。137枚を超える大作『ローマの風景』はローマを訪れた多くの旅行客が記念に買い求めていきました。 - 1762年
『ローマの古代遺跡』を出版。 - 1763年
教皇クレメンス13世が、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の内陣部分の増改築計画を依頼します。ピラネージは設計図面図書一式(25枚)を提出しますが、事業は実現しませんでした。 - 1764年
レッツォニコ枢機卿が、マルタ騎士団の広場の整備計画と、別荘に付属するサンタ・マリア・デル・ブリオラート聖堂の修復計画を依頼します。 - 1766年
整備事業と修復事業が完了し、教皇クレメンス13世を迎えて竣工式が行われます。 - 1767年
ピラネージはこれらの功績で「黄金拍車の騎士爵」の勲章を与えられ、名実ともに国家を代表する建築家となりローマ建築界の殿堂入りを果たします。建築家として有名なピラネージですが、彼の設計で実現した事業はこの2つだけでした。 - 1778年11月9日
ローマでその生涯を終えます。(享年58歳)
彼のさまざまな試みや多くのデッサンは後世の建築家に大きな影響を与えました。
考古学の調査に没頭|地勢図作成にも習熟
1750年代、ピラネージは古代ローマ遺跡の本格的な調査を開始します。最初の考古学調査はローマ市内外地下に眠る古代の墓室、カタコンベに関するものでした。
当時の最新資料をもとに、2消点透視図法(遠近法、パース)を駆使した描写力でローマの地下空間を記録していきます。
図版には、古代ローマ人が高度な建設技術により造りだした巨大な地下空間の壮麗さが精緻に描かれています。
やがて古代ローマ時代の状況を想定した都市や建築を描き始め、1962年から1964年にかけて5冊の考古学調査書を出版します。
ピラネージは、プロの地図作家 ジョヴァンニ・バッティスタ・ノッリのもとで地勢図の作成技術も習得していきました。
そのため彼の考古学書は説明が充実していることに加え、風景画や地勢図、構造分析図や装飾図など多くの解説図が収録されており、ビジュアルでわかりやすい内容になっていました。
建築家の才能と教養で実践的なアプローチを試みたピラネージは、同世代の考古学者にひけをとらない研究者へと転身していきます。
インフォマティクスとピラネージ
インフォマティクスは、1998年より「Piranesi(ピラネージ)」というソフトウエアを提供しています。
建築家ピラネージのモノクロデッサン風の表現に触発され、ケンブリッジ大学の学生とインフォマティクスとで共同開発して生まれた製品です。名称は、着想の源となった人物にちなんで「Piranesi(ピラネージ)」と命名されました。
このシステムでは、当時標準化されていたTIFFフォーマットを改良した独自のフォーマットを利用しました。
TIFFファイル
TIFF(ティフ:Tagged Image File Format)は、1986年、マイクロソフト社およびアルダス社(1994年、アドビ社に合併)により開発された画像フォーマットで、「タグ付き画像ファイル形式」とも呼ばれます。
TIFF拡張子を含むファイルには高品質のグラフィックイメージが含まれており、タグと呼ばれる識別子を使うことで様々なビットマップ画像を柔軟に表現できます。アプリケーションソフトへの依存性が低いのも特徴です。
通常リアルな3次元画像を作る場合は、
- 3次元モデリング
- 彩色
- 光源設定
- レンダリング
というプロセスで画像生成します。
その過程でTIFFフォーマットに保存すると、各ピクセルのRGBは記録されますが、奥行きやマテリアルの情報は捨てられます。
独自の拡張フォーマット|EPixファイル
開発エンジニアはそこに着目し、奥行きやマテリアルのデータを保存するため、TIFFファイルを拡張した「EPix」という独自の拡張フォーマットを開発しました。
EPixフォーマットを使ったデータには奥行きが含まれているので、オブジェクトの前後関係を認識し、後ろにある画像が陰面処理されます。
たとえば点景オブジェクトを置くと、奥行き情報から判断してオブジェクトのサイズを自動補正して配置したり、タイル目地などを遠近法で配置したりできます。
シンプルな3次元モデルにテクスチャや画像を貼って再レンダリングするだけで、線画風、水彩画風などソフトな手描き風タッチの描写がスピーディに行えます。
まさに建築家ピラネージのデッサンに迫るような表現を、デジタルですばやく再現できるシステムです。TIFFフォーマットを応用した小さなイノベーションが、ソフトウエア開発に役立ちました。
以下はソフトウェア「Piranesi」バージョン2(2000年頃)のカタログの一部です。建築家ピラネージのセピア色の水彩画をイメージしたデザインです。
カタログ表紙
多彩な手描き風表現が可能
Piranesiの最新カタログをご覧になりたい方はこちらから >>
GeoTIFF
柔軟なTIFFフォーマットは、空間情報システムではGeoTIFFという位置情報を持った画像ファイルとして使われています。
GeoTIFFは、地理情報や地図に関する情報もタグとして格納できるTIFFの拡張版フォーマットで、GIS(地理情報システム)、リモートセンシングや測量などの分野で使われています。
GISソフトでGeoTIFFを使えば、画像を撮影した場所にその画像を配置することができます。
ピラネージの作品
ピラネージが残した数々の作品のなかからいくつかご紹介します。
『第1部 - 建築と景観』
2つの広い中庭に挟まれた彫刻の大ギャラリー
彫刻の大ギャラリー。その構造はアーチと高部に設けられた採光とを伴う。このギャラリーは,2つの広々とした中庭の中央にあり、そこへは壮麗な階段を昇って行く。彫刻、古代の浅浮き彫り、碑文、墓、その他の装飾がある。 [1]
『古代ローマの遺跡』
ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]の入口側面,断面図および細部
挿図I. ポルティクス・オクタウィアエ[オクタウィア回廊]のファサード側面の1つの図。A. 壁面を飾っていた大理石板の現存部分。B. ポルティクスの周辺部分を構成していた下部の円柱のうちの1本。挿図II. ファサードの同じ側面の断面図。C. ユノ神殿に残る円柱。D. ポルティクスの周りの地面。挿図III. ポルティクスの壁面の構造を示した図。この壁面は,内部が割石積みで外側がレンガ積みであるが,4パルミの高さごとに板レンガの一様な層が挟まれていた。[2]
『古代ローマの遺跡』
ローマの地勢図,古代の水道の経路を示したもの
図II マルキウス水道の一部をリウス・ヘルクラネウス1の水流に移すための浄化槽の断面図。地図の22番に記されている。A. テプラ水道の導管。B. マルキウス水道の導管。C. 水道管の覆いで,総覧の117,118,119,120番で記されている。D. 浄化槽。E. マルキウス水道から浄化槽への取水口。F. 浄化槽の下に位置する水溜めに水の流れ落ちる部分。G. 流出口Hに対応するもう一つの孔。水はHを通ってリウス・ヘルクラネウスの水路Iに流れ込む。L. 現在のローマの地表面。M. 下水をふさぐ瓦礫。N. 古代ローマの地表面。[3]
『古代ローマの遺跡』都市ローマの地図
ローマの地図。古代の建造物全ての位置を示して描いてあり,今現在でも遺構として存在している。そして,大理石の破片でできた古代ローマ地図によって注釈されている。これらは2世紀程前にロムルス神殿の遺跡から発掘され,現在はカンピドリオの博物館[カピトリーニ博物館]に保管されている。[4]
おわりに
建築家、版画家として知られるピラネージは、考古学や地勢図作成にも長けた人物でした。
ローマに憧れ、ローマを愛したピラネージですが、当時の街は衛生状態や治安も悪く市民生活も混乱していました。
建築事業も衰退の一途をたどり、才能があっても事業に携わるチャンスが見込めないため、主要な建築家たちは活動の場を求めて他王国へ移っていきました。
そんななかピラネージは最後までローマに残り、考古学の知識や地勢図作成のスキルを活かして緻密な図版を描き続けます。
栄華をきわめた時代の壮麗な建築物を想像しながら、実空間で叶わなかった構築を紙の上で実現させていたのでしょうか。
建築家にとって不遇の時代といわれる18世紀ローマで、自分が興味関心を抱いたことにひたすら没頭し習得して新境地を拓いた彼の生き方には、とても勇気づけられます。
【参考文献】『ピラネージの世界(建築巡礼)』(岡田哲史著/丸善株式会社)
【画像出典】[1]~[4] 東京大学総合図書館 ピラネージ画像データベース(シンプル版)
[1] https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/piranesi/document/506ced0c-6599-4c44-8ec3-70ffbff944f4
[2] https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/piranesi/document/acca0630-c9f6-4fac-8b58-089d5215d1c4
[3] https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/piranesi/document/9e46c196-70ee-480f-92b0-aa320f3049ac
[4] https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/piranesi/document/06458177-3475-4f4f-ace1-a16d751b42b9