慶應義塾大学の創設者、『学問のすすめ』の著者として有名な福沢諭吉は、西洋文化に触れ、学問の重要性や独立自尊の精神(自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うこと)を説いた教育者・啓蒙思想家でした。
諭吉は明治維新前に幕府使節団の一員として3度海外渡航し、その際の出来事やエピソードを日本初の「海外旅行ガイドブック」ともいえる『西洋旅案内』で紹介しています。
今回は書籍『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』(福沢諭吉著/武田知広訳・解説/彩図社)を参考に、諭吉の欧米渡航ルートを辿ってみたいと思います。
福沢諭吉が見た150年前の世界~『西洋旅案内』初の現代語訳~
内容紹介
近代化に影響を与えた福沢諭吉は、「冒険の人」でもありました。若い頃に故郷を飛び出し長崎、大坂などで学んだのち、開国後、洋行使節団に紛れ込んで西洋の地を踏みました。
そんな福沢諭吉が明治維新直前に出版したのが、日本初の海外旅行ガイドブック『西洋旅案内』です。切符の買い方や旅程など実用的な情報はもちろん、政治制度や価値観の違いなど、あらゆる事柄がとらえられています。
本書を通じて19世紀欧米への船旅をお楽しみいただけると幸いです。(出版社書籍紹介文より)
訳者 武田知広氏のプロフィール:
福岡県出身。出版社勤務などを経て、フリーライターとなる。歴史の秘密、経済の裏側を主なテーマとして執筆している。
目次
福沢諭吉 渡航までの年譜
福沢諭吉の出生から渡航までの年譜をご紹介します。
- 1835年1月
豊前国中津藩(現・大分県中津市)の福沢百助の次男として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれる。 - 1854年2月
蘭学を志して長崎に出る。同藩家老の子奥平壱岐を頼り、長崎桶屋町光永寺に下宿、さらに砲術家である山本物次郎のもとで砲術を学ぶ。 - 1855年3月
大阪の蘭学者・医師である緒方洪庵の適塾に入門 - 1858年10月
江戸に出て中津藩江戸藩邸で蘭学塾を開く。これがのちの慶應義塾となる。
福沢諭吉 海を渡る
3回の渡航の概略は以下のとおりです。すべて明治維新前のことです。
第1回 渡米
アメリカ使節団の一員(木村摂津守の従者)として渡米します。
- 1860年1月13日
咸臨丸(かんりんまる)に乗船し品川を出帆 - 1860年1月19日
浦賀を出港 - 1860年2月26日
サンフランシスコに到着 - 1860年3月19日
サンフランシスコを出港し、ハワイ経由で帰国の途につく。 - 1860年6月23日
中浜万次郎(ジョン万次郎)と共に英語辞書(ウェブスター)を購入して帰国
第2回 渡欧
「翻訳方」の一員として幕府使節団に加わり渡欧しました。
- 1862年1月22日
英艦オーディン号で品川を出港 - 1862年1月29日
長崎に寄港 - 1862年2月4日
香港に寄港 - 1862年2月10日
香港を出港 - 1862年2月17日
シンガポールに寄港、インド洋・紅海を渡る。 - 1862年3月20日
スエズに到着。ここから陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超え、カイロを経由してアレキサンドリアに到着。 - 1862年4月3日
英国船で地中海に渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに到着。 - 1862年4月7日
リヨン経由でパリに到着 - 1862年4月13日
フランス皇帝ナポレオン3世に謁見
「オテル・デュ・ルーブル」ホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学。 - 1862年4月30日
カレーからフランスの軍艦でドーバーへ行き、その後、鉄道でイギリス(ロンドン)に入る。 - 1862年5月1日
ロンドン万国博覧会を見学し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。 - 1862年5月16日
イギリス外相と会談 - 1862年6月5日
日英会談。ロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。 - 1862年6月12日
ロンドン東部のウーリッジ港からオランダの軍艦で出港 - 1862年6月14日
ロッテルダムに到着 - 1862年7月1日
オランダ国王に謁見 - 1862年7月17日
鉄道でプロシア(ドイツ)のケルンへ - 1862年7月18日
ケルンから鉄道でベルリンへ - 1862年7月21日
プロシア国王ヴェルヘルム1世に謁見 - 1862年8月5日
鉄道でベルリンからスヴィーネミュンデ港へ行き、そこからロシア船でロシア・ペテルブルグへ向かう。 - 1862年8月9日
ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見 - 1862年8月21日
日露会談。陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学する。(見学の最中に気絶) - 1862年9月17日
ペテルブルグから鉄道でベルリンへ - 1862年9月21日
ベルリン到着 - 1862年9月22日
パリ到着 - 1862年10月6日
ロシュフォール港を出港 - 1862年10月16日
リスボン到着 - 1862年10月19日
ポルトガル国王ルィース1世に謁見 - 1862年10月25日
リスボンを出港 - 1863年1月29日
品川沖に到着。支度金400両で英書・物理書・地理書を大量に買い込んで帰国する。
文久2年(1862年)オランダにて
右から2人目が諭吉 [1]
第3回 渡米
幕府の軍艦受取委員の一行に随行して渡米します。
- 1867年1月23日
郵便船「コロラド号」で横浜港を出港し、22日目にサンフランシスコに到着。アメリカに到着後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問。
紀州藩や仙台藩からの資金約5,000両で辞書や物理書・地図帳を大量に買い込む。 - 1867年7月28日
帰国。のちに『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げる。
【江戸時代の1両は今のいくらに相当する?】
江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。[2]
書籍購入に充てた400両は現在の160万円~400万円、5,000両は2,000万円~5,000万円に相当します。
欧米行きの定期船の乗船料金
当時すでに定期船が就航していますが、乗船料金は大変高額でした。
出発地 | 目的地 | 乗船料金 | 現在の貨幣価値 |
横浜 | マルセイユ(仏)/リバプール(英) | 1等:約720ドル | 4,320万円~7,200万円 |
2等:約500ドル | 3,000万円~5,000万円 | ||
デッキ:約150ドル | 約900万円 | ||
ニューヨーク | 1等:約430ドル | 2,580万円~4,300万円 | |
2等:約310ドル | 1,860万円~3,100万円 | ||
デッキ:約50~60ドル | 300万円~600万円 | ||
アメリカ | イギリス/フランス | 1等:約130ドル | 780万円~1,300万円 |
2等:約75ドル | 450万円~750万円 |
※上記料金表は『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』を参考にインフォマティクス空間情報クラブ編集部が作成
西洋旅案内の航路図
『西洋旅案内』所収の航路図 [3]
福沢諭吉 緯度経度を解説
当時日本にはコンパスや測量技術がなかったため、船旅では海岸沿いを行くか島などを頼りに航路をとっていました。
諭吉は『西洋旅案内』の中で、西洋の人々がどうやって大海を渡って日本にきたかについて「星の位置を測って目的の方角を定めている」とし、緯度経度を以下のように解説しています。
地球の北の端を北極といい、南の端を南極という。この北極と南極の真ん中のところに西から東に一筋の線を引いたものを赤道という。
この赤道から北極、南極までの距離を両方とも90ずつに分けて、赤道に平行して線を引くと、両方合わせて180本の線となる。これを「南北の緯度」という。
またイギリスのグリニッジ天文台と北極、南極をつないで一周する線を引き、その線を基準にして、地球の周縁を360に分けたものを「経度」という。
『西洋旅案内』所収の地球図 [4]
福沢諭吉は、中津藩(大分県中津市)の出身で、蘭学を学ぶため長崎に出たのち、大阪にいる緒方洪庵の適塾で頭角を現し、江戸藩邸で蘭学塾を開きます。
横浜の外国人居留地に通ううちに、世界を知るには英語かフランス語が必要であることを悟り、オランダ語から一転英語の習得に励み、海外渡航の機会を得ました。
つまり中津→長崎→大阪→江戸と、学問のために場所を移動したことが海外渡航へつながっています。
帰国後は、江戸の大名屋敷を手に入れて慶応義塾を設立します。海外事情を知る諭吉には政府からオファーがあっただろうと思われますが、官職にはつかず民間人として教育の普及に努め、日本の近代教育創始者の一人として未来を拓きました。
いつの時代も外の世界に目を向け、書籍などで知見を得ながら行動を起こし新しい事業を実践することで、世の中の仕組みを変えていく先駆者がいます。
それは、先見の明と確固たる理念があってこそ実現できること。
長い歴史の中で蓄積された日本人の豊富な知性を集結し知恵を出し合うことで、再び日本が先進国として技術革新を起こす日がくることを願っています。
『世間の物事は、進歩しないものはすたれ、退かず努力するものは必ず前進する』
『やってもみないで、事の成否を疑うな』
『自分の力を発揮できるところに、運命は開ける』
福沢諭吉
【参考文献】
『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』(福沢諭吉著/武田知広訳・解説/彩図社)
・地球の名言ウェブサイト http://earth-words.org/archives/5120
【出典】
[1][3][4] 国立国会図書館デジタルコレクション
[2] 日本銀行金融研究所