人は旅を好み、新しい土地を求めて移動する生き物です。
明治以来、北海道は魅力的な新天地として多くの人々が移り住んできました。
今回は『松浦武四郎 入門 幕末の冒険家』(山本命著/月兎舎)を参考に、かつて蝦夷地と呼ばれた北の島を「北海道」と名付けた松浦武四郎の功績と生涯をご紹介します。
内容紹介
松浦武四郎は三重県松阪市に生まれ、全国を旅して百冊以上の書物を出版しました。
幕末期に、未開と言われた蝦夷地も六度にわたり探査。知られざるアイヌ文化を内地へ紹介するとともに、蝦夷地に代わる名称として「北加伊道」を上申したことから“北海道の名付け親”と言われています。
好奇心と愛と冒険心に満ちた武四郎の生涯を「松浦武四郎記念館」主任学芸員の山本命氏が執筆。(出版社書籍紹介より)
著者 山本命氏プロフィール:
奈良大学文化財学科卒業後、三重大学大学院人文社会学研究科へ進み、2001年に中退。同年4月より松浦武四郎記念館学芸員となる。松浦武四郎の魅力と功績を発信するべく、資料の調査・研究、講演や教育など普及活動に努める。
目次
はじめに
北海道出身の私は家系では4代目にあたりますが、初代からこれまで、生涯北海道にとどまった代はありませんでした。
さまざまな事情があるにせよ、これは新天地を求めて移動を繰り返す人間の本性を物語っています。
たとえば、長い歴史を持つ九州は9国※の総称であり、地域ごとに歴史が異なり、独自の文化や地域特性があります。(※9国:筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国)
一方北海道は、地方から多くの人々が未開の地に入ったことで各地の文化が融合し、大陸的な風土の中で独自の文化が作られていきました。
文化~江戸時代にかけて、伊能忠敬や間宮林蔵が測量を行い、北海道をはじめ北方4島、樺太などの調査が行われました。
江戸後期には、松浦武四郎が6度にわたり蝦夷地を調査し、風土や地理を日誌や地図に記録しました。
松浦武四郎 年譜
好奇心旺盛な武四郎は17歳から9年間、全国各地を旅してまわっています。
- 1818年 三重県松阪市で四男として生まれる。
同年、伊能忠敬死去 - 1833年 16歳 初めて旅に出る。
手紙を残して江戸に出るが、連れ戻される。 - 1834年 17歳 諸国漫遊の旅に出る。
- 1838年 21歳 長崎で出家し僧侶となる。
- 1843年 26歳 ロシア南下により蝦夷地が危ないことを知り、僧侶を辞め蝦夷地調査を行うことを決意する。
- 1844年 27歳 蝦夷地を目指すが断念
- 1845年 28歳 1回目の蝦夷地調査:函館から根室・知床にいたる南側の海岸線沿い
- 1846年 29歳 2回目の蝦夷地調査:函館から宗谷へ北上し、オホーツクに至る北側の海岸線沿いと樺太の南側
- 1849年 32歳 3回目の蝦夷地調査:厚岸(あっけし)から国後(くなしり)、択捉(えとろふ)
- 1856年 39歳 4回目の蝦夷地調査:全道を一周する海岸線沿いと樺太南部
- 1857年 40歳 5回目の蝦夷地調査:留萌・石狩・空知とその内陸部
- 1858年 41歳 6回目の蝦夷地調査:道央、道東の内陸部
- 1870年 53歳 開拓判官を辞職
- 1885年 68歳 1回目の大台ヶ原調査
大台ヶ原山(おおだいがはらやま)は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1mの山 - 1886年 69歳 2回目の大台ヶ原調査
- 1887年 70歳 3回目の大台ヶ原調査。富士山にも登る。
1合目から頂上まで1日で登り、山頂で一晩過ごしたのちまた1日で麓まで下山した。 - 1888年 71歳 東京の自宅にて死去
地理学者として
長崎で僧侶となった武四郎は、さまざまな人と交流する中で、ロシアが南下し蝦夷地に迫ってきていることを知ります。
このままでは蝦夷地、そして日本がロシアに侵略され植民地になるのではという危機感を抱き、当時未開の地だった蝦夷地へ向かうことを決意します。
蝦夷地に赴いた武四郎は、アイヌの人びとの協力のもと調査を進めていきます。
アイヌの社会に入り理解を深めていた彼は、その時代には珍しく、自分たちと異なる文化を自然に受け入れる平等な感覚を身に付けた人物でした。人々の生活や労働環境を改善しようと、調査書に窮状を記していました。
また、アイヌ独自の文化や風習をより多くの人びとに伝えるため、地理の記録に加えて、暮らしぶりや歴史、言い伝え、和歌などの情報もまとめて100冊以上の本を刊行しています。
西蝦夷日誌 6編
日本海側の海岸線の様子を記した紀行本 [1]
東西蝦夷山川地理取調図
『東西蝦夷山川地理取調図』 北海道全図(上)・ 知床(下)
緯度経度1度を1枚ずつとして計26枚から成り、すべて貼り合わせると縦2.4m×横3.6mにもなる巨大な地図 [2]
伊能忠敬の蝦夷地図は、海岸線の緯度経度を測量し北海道の正確な輪郭がわかるようにしたものでしたが、内陸部までは測量されていませんでした。
一方、武四郎は伊能忠敬・間宮林蔵たちによる海岸線の測量データを使って輪郭を表し、内陸部は自らの6回の調査結果をもとに作成。そこに、アイヌの人々から聞き取った音をカタカナ表記した9,800もの地名や山川の名前を記載していきました。
主な著作物
武四郎が記した書物は200冊以上、刊行本は100冊以上にも及びます。(その多くが自費出版でした。)
- 『蝦夷大概図』
武四郎が出版した初めての蝦夷地図 - 『東西蝦夷山川地理取調紀行』
旅先で見聞きしたことをまとめた紀行本 - 『近世蝦夷人物誌』
アイヌの人々に対する松前藩の非道を告発した本 - 『蝦夷漫画』
アイヌの人々の生活を図解入りで詳しく紹介した本 - 『丁亥前記』
大台ヶ原に登り調査した際の記録
「北海道」と命名
明治時代になり、新政府は本格的に蝦夷地開拓に乗り出します。
6度の蝦夷調査を行っていた武四郎は開拓判官という重要なポストに任命され、開拓政策を進めるにあたり「蝦夷地」に代わる新しい地名を付けるべきと、新政府に名称案を6つ提出します。
「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」のなかから「北加伊道」が採用され、「加伊」が「海」に改められて現在の名称になりました。
「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合うときの「カイノー」を由来としています。「北加伊道」には、「日本の北にあるアイヌの人々が暮らす大地」という武四郎の思いが込められています。
おわりに
北海道には武四郎の歌碑、像、顕彰碑が建てられている場所が50ヶ所以上あります。
日本各地を旅してまわり、晩年は大台ヶ原山への調査登山に加え富士山にも登り、結果として探検家としてだけでなく、地理学者、博物学者、作家、画家など多彩な顔を持つことになります。
彼の知的探究心と行動力、調査内容を事細かく記録しそれらをまとめたエネルギーには、ただただ感嘆するばかりです。
人生は旅といいますが、亡くなる前年まで登山や旅を続けた武四郎の人生は、文字どおり旅そのものでした。
【参考文献】
『松浦武四郎 入門(幕末の探検家)』 (山本命著/月兎舎)
『アイヌを愛した松浦武四郎』 山本命 講演資料 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1622.pdf
・松浦武四郎記念館 https://takeshiro.net/
【画像出典】
[1][2] 国立国会図書館デジタルコレクション