インフォマティクス 長島ファウンダーによるコラム第3回です。
英国ARC社での就職に向けて
1976年の春、MITのマスターコース修了が近づき、いよいよ就職先を探さなければならなくなり、私はARC社に「どうしても働きたいので雇ってもらえないか」とエアメールを出しました。(エアメールといっても郵送です。)
しばらくして長い返事が届きました。なかなか理解できないイギリス英語の文章を友達に解読してもらったところ、どうやら返事は「No」。そのやりとりを2~3回繰り返し、「Yes」の返事がもらえないまま卒業の時期が迫ってきました。
そんな時、卒業後6~9月の4ヶ月間、私を雇うため特別に9,500ドル(1ドル=300円だったので日本円で約285万円)の研究費をネグロポンテ教授が調達してくれました。
以下は、ネグロポンテ教授がMITの研究室のニュースレターに記した文です。
エネルギー推定機能の追加実装のためMAS(私のあだ名)を雇用するにあたり、エネルギー研究所から9,500ドルの研究資金を獲得した。今後4ヶ月にわたる彼の研究により、優れたCADシステムが世に出ることになるだろう。彼には超人的なプログラミング能力があり、すばらしい成果を期待できる。
(ネグロポンテ教授による英文ニュースレターの一部を和訳)
その9,500ドルのうち半分以上はMITの経費として引かれたものの、残りの額でテクニカルアシスタントとして雇ってもらうことになりました。このようなタイミングで働けたことを大変ありがたく思いました。
9月に入り、やはりARC社で働くことが諦められないでいる時に、この先どうするのかとネグロポンテ教授が聞いてきたので、ARC社で働きたいと思っていると正直に答えました。その時はARC社から「Yes」の返事をもらっていませんでした。
私の気持ちを知った教授がARC社に数回電話し、最終的に「Yes」の返事をとりつけてくれました。
教授は私にYesが出たことを伝える際、こう付け加えました。「問題が2つほどある。イギリスはいつも天気が悪いことと、ARC社の給料が安いことだ。」
私はこれを冗談だと思っていましたが、のちに事実だということがわかりました。
とにかくARC社で働きたいという一心で突き進んでいましたが、年収は£3,000(日本円で約150万円)。当時MIT卒であればその3倍程度の年収は見込めていたと思います。
晴れて希望のシステム会社に入社
私は日本には帰国せず、アメリカからそのまま渡英しました。
1976年10月末、ガトウィック空港に到着した時のこと。入国審査での決まり文句のやりとりで、
空港の係官「イギリスに来た目的は?」
私「仕事をするためです」
観光目的という答えを想定していた係官は、にわかに真剣な顔になり、
係官「労働許可証は?」
私「えっ?労働許可証って何ですか!?」
というやりとりになりました。
同年1月には何の問題もなく英国に入国できたのですが、今回は就労目的なので入国には労働許可証が必要だったのです。このとき初めて知りました。
控え室で待っている間、係官はARC社に電話し事情を聞いていました。ARC社のスタッフが係官を必死に説得してくれて、最終的に一年間の労働許可証を発行してもらえました。
現在なら「不法就労」で自国へ強制送還させられるところ。当時はサッチャー政権に移る前の労働党の時代で、古き良き時代だったのも幸いしたのでしょう。
この一件は、「あやうくMASが刑務所に入れられるところだった」とARC社で後々まで語り草になりました。
無事ARC社に到着したものの、どうして私を雇うことになかなかYesといってくれなかったのか、段々と会社の事情がわかってきました。
同年春に社員3名を解雇し、給湯室に常備するおやつ代すら削減せざるをえない厳しい経営状態。ARC社は今でいうスタートアップ企業であり、本来であれば社員を増やす余裕などなかったのです。