新型コロナウイルスの感染拡大が世界中で深刻な状況を引き起こしています。
今回は感染病流行予測に用いられる数理モデルをご紹介します。
その研究は18世紀、数学者ダニエル・ベルヌーイ(1700-1782)にまで遡ります。
目次
ダニエル・ベルヌーイ
父が数学者ヨハン・ベルヌーイ(1667-1748)、伯父が数学者ヤコブ・ベルヌーイ(1654-1705)、ダニエルの兄弟もみな数学者というベルヌーイ家に1700年2月8日に生まれたのがダニエルです。
13歳でスイス・バーゼル大学に入学、16歳で修士号を取得するも、父ヨハンの反対で数学の道に進むことができず、医学を学び呼吸のメカニズムの研究で博士号をとっています。
流体力学のベルヌーイの定理(1738年)で有名なダニエル・ベルヌーイは数学者として知られていますが、実は早い段階から医学との接点がありました。
結果として数学者ダニエルの研究対象は、医学、生理学、植物学、天文学、物理学、流体力学、海洋学、経済学と多岐にわたることになります。
ダニエルは天然痘死亡率の寿命への影響に関する研究論文(1760年)の中で次のように述べています。
But perhaps we will attain more surely the end that we propose, if we add here an evaluation of the ravage of natural smallpox, & of that which one can gain in procuring it artificially.
【出典】ダニエル・ベルヌーイの研究論文(1760年)
Daniel Bernoulli(1700-1782)
ここに「smallpox(天然痘)のravage(損害)のevaluation(評価)」とあるのがわかります。
紀元前1100年頃の天然痘の記録があることからすると、20世紀まで三千年以上人類は天然痘と闘ってきたことになります。
WHO(世界保健機関)が地球上からの天然痘絶滅宣言を発表したのが1980年5月8日のことです。
SIR 数理モデル
1927年、生化学者ケルマック(1898-1970)と軍医・疫学者マッケンドリック(1876-1943)によって画期的な感染病流行の数理モデルSIRが発表されました。
SIR数理モデルは以下を想定したモデル方程式です。
- 新型の感染症のため免疫を持つ人はいないこと
- 外部の都市との間で人口移動がないこと
- 人口は密集し不特定多数の人との接触があること
- ペストのような急速かつ短期的な流行
計算方法
まず集団を3つに分類します。
- 未感染者(Susceptable)
- 感染者(Infected)
- 感染後死亡もしくは回復による免疫を獲得した者(Recovered)
それぞれの頭文字を時刻tにおける人数をS=S(t)、I=I(t)、R=R(t)とします。これがSIRモデルと呼ばれる所以です。
すると、これら3変数の関係は以下のような微分方程式で表されます。
第1式の微分方程式
左辺dS/dtは未感染者数Sの時間変化率(微分)。
未感染者と感染者の接触により感染するので、接触率は両者の人数の積SIに比例します。
集団内では、1人が毎日接触する人数を平均m人、それぞれの接触毎に感染が生じる1日あたりの確率をpとしたとき、感染率β=mp/N。刻々と感染が起こると未感染人口Sは減少していきます。
第3式の微分方程
左辺dR/dtは回復者数Rの時間変化率(微分)。感染者が一定の速度γで回復していくとすると、刻々と回復する人が増加していきます。1/γは感染期間が指数宇分布に従うと仮定した場合の平均値を表します。
第2式の微分方程式
総人口N=S+I+R
は定数ですから、時間微分は0です。
0=dS/dt+dI/dt+dR/dt
これと第1式、第3式から第2式が得られます。
SIRモデルのシミュレーション
以下の初期条件のもと、SIRモデルのコンピュータシミュレーションを行ってみます。
- 総人口N=1000万人
- 初期感染者I(0)=100人(S(0)=10000000-100、R(0)=0)
- 1日1人あたり平均10人に接触(m=10)、接触毎に感染が生じる1日あたりの確率p=0.02(感染率β=10×0.02/N)
- 感染者の回復日数を14日(回復率γ=1/14=0.071…)
この結果から以下が読みとれます。
- 感染者人数のピークは総人口の1/3弱
- 最終的に9割以上が感染する(S:未感染者数が200日以後10%であることから)
- 終息までには200日程度かかる
基本再生産数
SIRモデルを分析すると感染病流行の発生条件が導かれます。
R0=βN/γ
β(感染率)、γ(回復率)、総人口N
このR0が基本再生産数(basic reproduction number)と呼ばれる指標です。1人の感染者が再生産する二次感染者の平均数を表します。
したがって、
R0>1(閾値条件)
であれば初期の感染者数は指数関数的に増大し、
R0<1
であれば感染流行は発生しません。
SIRモデルは閾値条件が満たされる場合、感染者数は1回のピークをもつ感染流行がうまれ、やがて自然に終息し、しかも全く感染しない未感染者が一定数残る挙動を示します。
1905年、インド・ボンベイでのペスト大流行の際にSIRモデルを適用
ケルマックとマッケンドリックはSIRモデルを実際の事例に適用しています。それがインド・ボンベイにおける1905~1906年のペスト大流行です。
SIRモデルはペスト流行のデータに一致させることができました。そして、感染病流行がなぜ自然終息するのかという当時の疑問に対しても1つの解答を与えたのです。
【出典】W. O. Kermack and A. G. McKendrick, “A Contribution to the Mathematical Theory of Epidemics,”Proc. Roy. Soc. of London. Series A, Vol. 115, No. 772 (Aug. 1, 1927), pp. 700-721
なぜモデルが微分方程式で表されるのか?
英国の経済学者マルサス(1766-1834)は、1798年に論文「人口論」を発表しました。
この中で展開されたアイディア
「微分方程式であらわされる数学モデル」
の原点といえます。
マルサスの人口モデルは、簡単に解ける1階微分方程式です。
人間は一人一人離散的な存在ですが、人口が十分に大きい場合、その変動は連続的とみなすことができます。
つまり、人口を連続量として扱えるということです。すると、人口を時間で微分することができる(したがって積分も可能)わけです。
200年にわたり欧米では実際の社会問題 ── 医学・経済学・物理学・生理学・ロケット工学・芸術・軍事 ── に対して「微分方程式であらわされる数学モデル」を展開し、それが問題解決に貢献してきました。
今回紹介したSIRモデルの考案者ケルマックとマッケンドリックもスコットランドの研究者です。
300年前のダニエル・ベルヌーイがSIRモデルを見れば、即座に理解できます。
「こんなモデルなら私でも考えることができる」
なぜなら、ダニエルが知る解析学 ── 微分と積分の言葉で語られているからです。
しかしそのダニエルでも、連立微分方程式がコンピュータで解かれる風景を見たら驚嘆の声をあげることでしょう。
「この連立微分方程式が解けるのか!」
書籍紹介
ビジュアル パンデミック・マップ
本書ではコレラ、天然痘、エボラ出血熱、SARSなど、これまで大流行した伝染病を解説。
当時のイラストや写真、最新データをもとに感染経路や終息例、感染地域などがわかりやすく地図化されています。
データ分析のための数理モデル 本質をとらえた分析のために
データ分析で何ができるの? 統計検定と数理モデルの関係は?
本書はこれからデータ分析を始める初学者・初級者を対象に「数理モデル」をわかりやすく解説されています。