こんにちは、インフォマティクスの空間情報クラブ編集部です。
今回は時(とき)を旅してみたいと思います。
時間は見えるのか
「あなたは、時間が通り過ぎるのを見たことがありますか?」
そう聞かれたら、私は迷わず「はい」と答えるでしょう。
何年も前のある日、思いがけず幸せな状況に巡り合い、あまりの嬉しさに時間が止まってほしい!と思った瞬間、私の傍らをゆっくりと確実に時間が通り過ぎていくのが見えました。
私はただそれを見つめるしかありませんでしたが、だからこそ一瞬一瞬を大切にしようと思ったのでした。
少々感傷的な話になりましたが、今回はそんな時(とき)を旅していきたいと思います。
時間を長く感じたり、短く感じたりするのはなぜか
よく、物事に集中したり夢中になったりすると「時間の感覚がなくなる」と言いますが、それは「感覚」というよりも、時間の「間隔」がなくなっている状態だと思います。
時間は1秒単位、1分単位、1日単位など一定間隔をおいて刻むもの。だからこそ、5分と50分では物理的に10倍の長さの違いがある。
でも、その刻みがなくなれば、時間はあるひとかたまりとして認識されるだけなので、「あっという間」とか「果てしなく長い」と感じるわけです。刻みのない時間、間隔・感覚のない時間。
歳を取ると時間の経つのが早いとも言います。子供のころに比べると1年なんてあっという間。ついこの間お正月だったのにもう年末かと年々感じます。
でもそれは1年という時間の、その人の人生における重み・割合・価値の差に他なりません。
例えば7歳児にとって1年は自分の人生の「7分の1」。この夏は人生7回目の夏。70歳にとっての1年は人生の「70分の1」。この夏は70回目の夏。その重みや価値、感じ方、新鮮味に10倍以上の差があるのは当然でしょう。
でも人生の残りの時間はそうではありません。100歳までの残りの時間を考えると、7歳児にとって次の1年は残り93分の1。あと93回、夏が来る。70歳にとっては30分の1。
なんと貴重な1年、そして夏でしょう。時の経つのが早いなんて言っている場合ではありません。
デジャヴ(既視感)とは
「この場面どこかで体験したことがある。いつ、どこだったっけ?」「これと同じことが前にもあったけど思い出せない」。不思議なこの感覚、既視感。
フランスの心理学者が最初に本に書いたのでフランス語「デジャヴ」(Déjà vu=すでに見た)が世界共通語になっていますが、実際かなりの人が経験しているといわれています。
原因は特定されていませんが、夢であれ、無意識下の記憶であれ、脳の一時的な混乱であれ、実在する空間情報の何かが人の記憶脳のどこかしらを刺激していることは間違いありません。
デジャヴ感を引き起こす原因は、懐かしい景色?色?匂い?声?手触り?
今度デジャヴに出会ったら周りの空間情報を一つ一つチェックしてみましょう。
1秒の長さ
ここで時間の定義についてあらためておさらいしましょう。
1日の長さは地球の自転、1年は地球が太陽の周りを一巡りする公転の長さ。これは自然界のことだから自動的に決まるとして、問題は1日の中をどのように区切るかです。
現代の感覚だと10等分するかもしれませんが、最初に暦を作った古代バビロニアでは12進法や60進法が使われていたので、1日の長さを12×2=24時間に区切り、さらに1時間の長さを60進法で分に、さらに1分を60進法で秒にわけました。これで「1秒」の長さが決まったのです。
ところでこの「1秒1秒の積み重ね(86,400秒)が1日」なのではなく、1日を86,400に区切ったものが1秒なのだという考え方。生まれた時からカチ、カチという秒針の音に親しんできた私たちには意外に理解し難いと思いませんか?
でも古代には時間も分も秒もなく、ただ地球と太陽があるだけ。日が昇って日が沈む、その繰り返しがあるだけでした。
それを昼と夜に分けよう、さらに12個に区切ろう、さらに60個に区切ろう、というように長い時を経て生活に便利なように時の単位を決めていき、最終的に1秒の長さが決まったわけです。
ところがその後(半世紀前くらい)、この計算のもととなる肝心の1日の長さが日によって違うことが判明しました。
地球は、潮汐力による地球の角運動量、大気や海流による循環摩擦、地震など大きな運動エネルギーによる慣性モーメント変動など様々な原因や不確定要素によって、自転速度は一定ではないのです。
「1/f ゆらぎ」の話ともリンクします。
そこでよりブレの少ない1年の長さを測り、それを365.2422日と24時間と60分と60秒に分けた長さを1秒としました。1年が365.2422日であることは「暦」の回でも書きました。
1秒の長さ=1年の長さ÷(365.2422日×24時間×60分×60秒)ということですが、その「1年の長さ」ってどうやって計るの?
地球の自転のわずかな差を問題にするぐらいなので、正確に1年の長さを測らなければということで、当時発明されたばかりの原子時計が使われました。
原子時計は振り子時計に比べて圧倒的に正確な時を刻み、他の要素からの影響を受けません。
かくして原子時計によって1年(1太陽年)の長さが測られ、1954年、国際度量衡総会で『1秒=1太陽年の1/31,556,925.9747』と決められました。
1967年、その原子時計の正確さから「秒の定義」は地球の自転や公転から計算するのではなく、以下のような量子力学的定義に改定されました。
それは 1秒の長さを「セシウム133原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移に対応する放射の9 192 631 770周期の継続時間」とするものらしいですが、こうなるともう何言ってるかわからない ...。
セシウム原子が約92億回プルプルと何かを放射すると、秒針がカチッと1つ進む、という感じでしょうか。古代バビロニアの人が聞いたら笑い出しそうです。
時を刻む
さて旅といえばお土産。お土産のお菓子は12個入り。3×4個にきれいに箱詰めされています。
「10」が2と5でしか割り切れないのに対し、「12」は2でも3でも4でも6でも割り切れて便利な数字です。
60は2, 3, 4, 5, 6, 10, 12, 15, 20, 30で割り切れますね。それで古代バビロニアの人々はこの数を好んで使っていたのです。
時間は平等
このように時(とき)には「それをどのように刻むか」という点において、先人たちの知恵と必要が詰まっています。
もし16進法を使って時間を刻んでいたら、1日は32時間あったかもしれません。その場合、1時間は短く日常生活がもっとせわしないものになるかもしれません。
逆に1日を10時間に分けていたとしたら、1時間が長くなるので、「あ、あと1時間しかない!」と思う感覚も今とはずいぶん違うものになるのでしょう。
こうして考えると、私たちの生活のリズムは時(とき)という1つの空間情報に大きな影響を受けています。
時(とき)を物理的に着用するようになってからは、時間に拘束されることもあります。
たまには腕時計を外し、スマホを見えない場所に置き、セシウム原子の振動と関係のない時間を過ごしたいものです。