コラム 地図マニアな日々

地図は土地の履歴書|あの有名スポットの昔を知る

今昔マップで知る、あの有名スポットの歴史

地図は作った瞬間から古くなってしまう運命を持つ。

街は常に変化しており、新しい道路が開通したり、新しい建物が建設されたり、逆にそれまであった施設がなくなってしまうこともある。店舗の開店・閉店まで含めれば、さらに変化の頻度は高まる。

それだけに、地図における経年変化の更新は重要な意味を持つ。変化情報を確実に捉えて地図をなるべく早く更新してユーザーに届けることは、地図会社にとってはもっとも力を問われるミッションともいえる。

逆に考えれば、地図は「その一瞬」を記録した貴重な歴史資料という性質を持っていることにもなる。新しい道や建物ができ、それが街に馴染むと、多くの人はその道路や建物ができる前の風景を忘れがちだ。

それが地図には残されている。

それどころか、自分が生まれる遥か前の歴史も、古い地図を見れば知ることができるのだ。

浅草駅だった東京スカイツリー

たとえば、下町の新しいシンボルとなった東京スカイツリーが完成したのは2012年。

ではスカイツリーができる前、そこがどのような場所だったか覚えているだろうか。

平成14年の旧版地図を見ると、現在の東武鉄道東京スカイツリー駅が業平橋駅であったことや、現在スカイツリーの建っている場所に線路の引き込み線があったことがわかる。

東京スカイツリーの旧版地図(平成14年)現在の比較今昔マップon the webより)

実はこの場所には東武鉄道の本社ビルと、それに隣接して業平橋駅の折り返し用のホームがあった。

さらに折り返し用ホームができる以前は貨物駅があり、それゆえスカイツリーを建てられる広い場所が確保できたのである。

さらに遡ると、意外な事実が見えてくる。

東京スカイツリーの旧版地図(昭和7年)現在の比較今昔マップon the webより)

現在の東京スカイツリー駅は当時「浅草駅」であり、西側線路がなく、始発駅だったことがわかる。

現在の浅草駅は隅田川を越えて、文字どおり浅草にあるわけだが、かつて東武鉄道は隅田川を越えておらず、この場所を浅草駅としたのだ。

さらに時代を遡ると、大正時代の旧版地図には、駅周辺に湿地の記号が見える。

東京スカイツリーの旧版地図(大正3年)現在の比較今昔マップon the webより)

東京の下町が江戸時代まで湿地帯だったことは知られているが、この周辺は大正期まで湿地が残っていたことが地図から読み取れる。

ちなみに現在の地理院地図には、東京スカイツリーの本来の目的である電波塔の記号ではなく、高塔の記号が描かれている点は興味深い。

どんどん広がる羽田空港

東京の空の玄関口、羽田空港。

1978年に成田空港への国際線移管に伴い一旦国内線専用になったものの、その後の沖合展開事業で拡張すると、2010年には人工島と桟橋のハイブリッド型の滑走路D滑走路が完成し本格的に国際線が復活した。

2014年には国際線ターミナルを拡張、さらに2020年には従来の第2ターミナルを国際線対応にするなど着々とハブ空港としての体裁を整えつつある。

現在と過去の地図を見比べると、羽田空港の拡張ぶりがよくわかる。

現在の羽田空港。沖合のハイブリッド型のD滑走路が目立つ今昔マップon the webより)

平成15年の旧版地図にはまだD滑走路がないほか、第2ターミナルも建設されておらず、国際線ターミナルも暫定状態だ。

平成15年の旧版地図。まだD滑走路はない今昔マップon the webより)

昭和51年の旧版地図を見ると現在のC滑走路もなく、沖合展開は準備中なのがわかる。ターミナルも現在の位置と大きく異なるほか、京急線もまだ空港には乗り入れていない。

昭和51年の成田空港開港前の羽田空港。沖合展開はまだ準備今昔マップon the webより)

さらに遡って終戦直後の旧版地図を見ると、現在の空港はなく、米軍に接収された東京飛行場の姿がある。

昭和22年の旧版地図。まだ小さな飛行場があるのみ今昔マップon the webより)

さらに昭和7年まで遡ると、羽田飛行場の注記があるのみで滑走路などは描かれていないが、戦時改描の可能性が高い(戦時改描:軍事的に重要な施設を地形図上で省略、あるいは偽って表現すること)。

現在のB滑走路あたりに穴守稲荷が鎮座しており、その前まで当時の京浜電鉄が乗り入れていた。すぐそばに羽田球場や海水浴場もあり、繁華街として賑わっていたという。

現在のA滑走路近くに羽田競馬場があったこともわかる。

昭和7年の旧版地図。すでに飛行場の注記が見える今昔マップon the webより)

横浜駅は海の上

多くのオフィスビルや商業施設が並ぶ横浜駅前。横浜駅周辺も時代とともに変貌を遂げている。

現在の横浜駅周辺今昔マップon the webより)

現在はみなとみらい地区の開発が進み、横浜駅の東口からパシフィコ横浜にかけてさまざまな施設がオープンしつつある。

しかし平成6年の旧版地図を見ると、みなとみらい地区はまだパシフィコ横浜と横浜美術館が目立つ程度で、開発途上の雰囲気が漂う。

平成6年の旧版地図に見る横浜駅周辺今昔マップon the webより)

みなとみらい地区の開発は1983年に着工、横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町という二つの繁華街を一体化する目的があった。

それ以前、この場所には三菱重工の造船所、そして高島ふ頭と貨物ヤードがあった。

昭和53年の旧版地図。みなとみらいの開発はまだ始まっていない今昔マップon the webより)

大正期まで遡ると、横浜駅西口側、北幸町にある油槽所の注記が目を引く。これは横浜油槽所と呼ばれ、灯油を貯めておく施設だった。

この場所に、タンカーで運んできた灯油を貯めて販売したという。これを現在のガソリンスタンドの始まりとして、「日本ガソリンスタンド発祥の地」の記念碑が建てられている(碑は駅の東口側にある)。

現在の横浜駅西口前に油槽所があったとは、想像し難い。

大正14年の旧版地図。横浜駅前には油槽所の注記が見られる今昔マップon the webより)

明治期まで遡ると、なんと横浜駅の西口側まで海が入り込んでいたことが判明する。

鉄道開業時の横浜駅は現在の桜木町駅であり、現在の横浜駅の辺りは幕末までは海で、鉄道敷設のため埋め立てられたのだ。

当時の海は横浜駅の西側へ大きく入り込み、その後も「平沼」として残っていた。

現在の平沼という地名はそれにちなんだものだ。

明治41年の旧版地図。横浜駅の西口側にまで海が入っていた今昔マップon the webより)

この旧版地図を見ると横浜駅の西側がほとんど埋立地であることがわかる。

東日本大震災のときに横浜駅西口の商業ビルなどに半壊被害が出ているが、埋立地の脆い地盤上に建っていたことが大きな要因と考えられる。

土地の履歴は知っておくものである。

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遠藤宏之(えんどうひろゆき)様

地理空間情報ライター(地図・地理・測量・GIS・位置情報・防災)、測量士、GIS NEXT副編集長 著書:『三陸たびガイド』『地名は災害を警告する』『首都大地震揺れやすさマップ』(解説面)『みんなが知りたい地図の疑問50』(共著)他

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