コラム

MITメディアラボ設立の経緯|ニコラス ネグロポンテ氏が語る未来への提言(2)

ニコラス ネグロポンテ様のご講演「misfits(はみ出し者)」第2回は、MITメディアラボの設立経緯やメディアラボに集まったユニークなはみ出し者たちのご紹介です。

メディアラボの設立

メディアラボの設立は日本と深い関わりがあります。

当時私は自分の研究室を持っており、スタッフも増えて規模が大きくなっていました。この時偶然の出来事がありました。

人生とは不思議なもので、ほんの小さな偶然が人生を大きく変えることがあります。この偶然はMITの学長室で起こりました。

私の研究室は学長室と学長専用車の駐車場との中間地点にあったので、しばしば研究室の前を学長が行き来していました。彼が当時の学長、ジェローム・ウィーズナーです。

研究室には色々なものが飾ってあり、いくつもの部屋がありコンピュータもあってワクワクするような空間で、写真映えする建物でした。彼はこの研究室をとても気に入っていて、来客があるたびにここに連れてきていました。

ウィーズナーはジョン・F・ケネディと幼なじみで親しい間柄でした。ケネディは大統領就任1年目にウィーズナーを科学顧問に任命し、日本の電機業界の再建支援を命じました。

ウィーズナーは当時まだ経済的に途上にあった日本に赴き、電機メーカーの人たちへのアドバイスを通じて再建を手助けしました。

1960年初頭このような任務での来日は重要な意味を持ち、これがのちにメディアラボの設立につながります。

 メディアラボ初期のはみ出し者たち

学長としてのウィーズナー(下の写真左上)の話に戻りましょう。彼は枠にとらわれないマインドと才能をもつはみ出し者たちが大好きでした。

メディアラボをMITの中で最もユニークで面白い研究室にするには、他の研究室からはみ出している人を集めればいいと考え、このグループを「Salon des Refuses」と名付けました。

初期に在籍していたはみ出し者たちをご紹介しましょう。

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まず数学者のシーモア・パパート(写真右上)。

数学者であるとともに発達心理学者でもあり、子供がどのように学ぶかを研究していました。

彼は人工知能(AI)研究の第一人者で「人工知能の父」と呼ばれるマーヴィン・ミンスキーとともにMITに人工知能ラボを設立し、のちにメディアラボの設立メンバーとなりました。

2016年はシーモア・パパートとマーヴィン・ミンスキーが亡くなった、とても悲しい年でした。

マーヴィン・ミンスキーは人工知能(AI)という言葉を考案しただけでなく、この分野に多大な貢献をしました。シーモア・パパートとともに知能と心理の相互作用による理論を開発しました。

こういった功績を残せたのもウィーズナーの支援があったからこそです。

ビデオ・フィルムの分野ではリチャード・リーコック(写真左下)が活躍し、グラフィックデザイナーのミュリエル・クーパー(写真右下)はMITの出版局「MIT Press」のロゴデザインで有名です。

このように、発達心理学者、人工知能研究者、映像制作者やグラフィックデザイナーといったさまざまな分野の専門家たちから構成されるラボが創設されました。

彼らは全員はみ出し者であると同時に、特定分野のプロフェッショナルですが、こういった数々の異能人材が集結していたことはとても不思議なことでもあります。

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再び話をウィーズナーに戻しましょう。ウィーズナーは通信分野のエンジニアであると同時に美術への関心も高い人物でした。

ある時、いつものようにラボのそばを通りかかった際、「ニコラス、私はMITの学長をやめようと思っている」と言ったのです。「会長に就任するのではなく研究者に戻ろうと思う」と言うのです。

学長をやめたら会長に、会長をやめたら名誉会長になるのが通常の流れですが、彼は研究職に戻ると言うのです。

「ただ困ったことに自分の研究室がない」というので、私は「じゃあ僕が作ってあげよう」と言いました。「僕が研究室を設立してあげるよ。研究者たちは皆んな君と同じはみ出し者だよ」と。

MITは資金調達に関して非常に厳しいところで、研究室の設立や維持に必要な資金援助をMIT内の他のスタッフのスポンサーからは受けられないのです。したがって、つねに新しいスポンサーを見つけなくてはいけません。

ウィーズナーが「日本に友人がいる」と言うので、1981年、私は彼とともに来日しました。すると、1960年代に彼が科学顧問として来日して支援した人たちが社長や会長になっており、以前お世話になったからと資金を援助してくれました。

そのおかげでMITメディアラボが設立できたのです。

新しい技術の幕明け

1960年代は技術の転換期でした。

さまざまな技術が進歩し、色々な研究ができる環境が整いつつありました。こういった流れの中で、1985年メディアラボを設立しました。

創設記念イベントで講演したのは、当時まだ無名だったスティーブ・ジョブズでした。私は彼と旧知の仲でしたが、彼はウィーズナーと知り合いになりたかったのです。

彼はこの創設記念イベントで講演してくれただけでなく、当時経済的な余裕はあまりなかったにもかかわらず個人的に出資してくれました。

クリエイティブユーザーが発明者

メディアラボはクリエイティブなユーザーが特定の技術を生み出せる場所です。

写真の歴史を見ると、概して技術革新と科学的な発明によって進化してきましたが、発明を促してきたのは写真家たちです。

写真家たちは、より高い解像度や光感度、動きや色を求めるからです。多くの場合、写真術分野での発明とクリエイティブな利用が非常に密接に関わり合っています。

一方、テレビの進化はいろいろな面で科学者や科学技術者によって進化が促され、ある程度進化すると多かれ少なかれ垣根を越えてエンドユーザーのもとに届きます。

コンピュータは写真家のようなもので、コンピュータの進化によってさまざまなものが発明されてきたのです。

日本人のはみ出し者たち

石井裕

NTTはメディアラボの初期のスポンサーでした。当時まだ国営企業でしたが、研究所をいくつか持っていました。

研究所を初めて訪問した際、NTTの職員は「研究員はいますが研究テーマがあまりにも変わっているので見せたくない」と言いました。

次に訪問したときは研究を紹介してくれましたが、研究者本人はクローゼットに閉じ込められていました。

NTTは彼の研究が突拍子もないので外部の人間には見せないようにしていたのです。このように当時彼はNTTにとっては厄介者とも言える存在だったのです。

私は彼に「MITにおいでよ。君の研究はここでは認められてないようだけど、MITでは歓迎されるよ」と言いました。

こうして我々は日本で東芝、三菱、日立といった大企業からの資金援助の獲得に加えて、人材発掘も始めました。

ジョン・マエダ

彼はアメリカ生まれの日系人です。もともとデザイナー志望でしたが、MITでソフトウェア工学も専攻したいと思っていました。

彼の両親は彼に教育を受けさせることを生きがいに働いていたので、MITでソフトウェア工学を専攻することが決まると大喜びしました。

ところが彼はデザイナーになる夢も捨てきれず美術系か工学系か進路に迷っていて、ある日私のところに相談にきたので、私は「工学系に進むのはやめたら?」と言いました。

結局彼はソフトウェア工学専攻をやめて美術系に転向し、私は両親からひどく恨まれました。

MIT卒業後、彼は日本の大学で芸術を専攻し博士課程も修了して日本で就職しました。そんな時、創設メンバーであるミュリエルクーパー(グラフィックデザイナー)が亡くなったため、新たにグラフィックデザイナーを採用しなければならなくなりました。

誰を採用したと思います? ジョン・マエダです。両親は大喜びして、今度はとても感謝されました。

伊藤穣一

5人でスタートしたメディアラボも25年経つと800人を超えるスタッフを抱える組織になりました。

人間が長い年月ずっと同じ人格であり続けることが難しいのと同様に、メディアラボも時代の流れの中で移り変わり、設立から25年経って新たな所長を探すことになりました。

自分の後任を探す場合、通常自分と共通点がある人物、話が合う人物を探しますよね。後任探しをしていた当時、あと5年早かったら私もそうしていたと思います。

選考を開始して6ケ月経った頃、伊藤穣一の名前が候補に挙がりました。「誰か彼を知っている人がいるか」と聞かれたので、私は「彼のことは10代の頃から知っているよ」と答えました。

しかし選考委員会の他のメンバーは、彼のことを「大学は中退しているし修士課程も博士課程も修了していない。おまけにDJをしたりベンチャー投資会社を経営したりという経歴で、所長にはふさわしくない」と言いました。

私は「応募してくださってありがとうございました。あなたは所長にはふさわしくないので不合格です」というメールを送っておいてくれと言われました。

その時10月だったのですが、「ふさわしくないので不合格」という言葉は伏せて、お礼のメールだけ送りました。

それから11月が過ぎ、12月、1月、2月になっても候補者が見つかりません。そこでもう一度応募者リストを見直すことになりました。

その過程でまた伊藤穣一の名前が浮上しました。彼らは以前のことはすっかり忘れ、「誰か彼を知っている人はいるか」と言うので、私は「知っているよ」と答えました。

「じゃあ連絡をとってくれ」といわれたので、彼に「今どこにいる?」とメールしました。すると「今バハマでスキューバダイビングをしている」と返信があったので、「MITの新しい所長候補に君の名前が挙がっているよ」とメールしました。彼はその2日後、MITにやってきました。

彼は非常に礼儀正しく知的であると同時にはみ出し者でもありました。そこが重要なポイントでした。

当時、選考委員会のメンバーは彼が新所長になることに懸念を抱いていましたが、就任後の5年間ですばらしい成果を挙げており、非凡な才能があることを証明しています。

創設メンバーは親、メディアラボは子供のような存在ですが、彼はとても面倒見の良い人物なので安心して子供を任せられます。

偉大なるジョイです。

スプツニ子!

もう1人最近メディアラボに加わったのがスプツニ子!です(本名は違うと思いますよ)。

大変面白いアイデアの持ち主で、ユニークな研究を行っています。これは未来の車工場の図です。

この絵を見て、彼女は車を1つの部品から作れないだろうか、と言いました。3Dプリンターで全体を成形するのではなく、成長していったら車になる、その種が作れないかと言うのです。

種を植えて成長してできるのが野菜ではなく車というわけです。

おかしな発想に思えるかもしれませんが、このように彼女は人とは違った考え方をする、とてもユニークな人物です。

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ご講演者ご紹介  ニコラス ネグロポンテ様
米国マサチューセッツ工科大学 教授
1985年、ジェローム・ウィーズナー氏と共にMITメディアラボを創設し、以後20年に渡り所長を勤める。
MIT卒業後、CAD研究のパイオニアとして1966年よりMITの研究室に在籍。
TEDトークには1984年の初登壇以降、13回講演。
1995年出版の「ビーイング・デジタル ビットの時代」はベストセラーとなり、40ケ国以上の言語に翻訳。
2005年、発展途上国の児童への教育を目的としたNPO「OLPC(One Laptop per Child)」を設立。
さらに、モトローラ社の役員を15年間勤めたほか、情報・エンターテインメント分野のデジタル技術を持つベンチャー企業への投資も行い、Zagats、WIRED社をはじめ、40社以上の企業設立をサポートした。

※本記事はご本人の承認を得て2017年3月27日の記念講演の内容を元に翻訳・記事化しています。

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空間情報クラブ編集部

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