Mary Fairfax Somerville
1780年12月26日 - 1872年11月29日
このすばらしいささやかな書籍を買い求めたとき、私は三十三歳でした。
はじめて『代数』という神秘的な語を見た日をふりかえり、ほとんど希望もなく、耐えてきた長い年月をおもうと、こんな宝を手に入れるなど、まるで夢のようでした。
この言葉を残した女性の名前はメアリー・サマヴィル。本連載でも紹介した「エイダ・ラブレス」に数学を教えた才媛である。
目次
1780年12月26日 誕生
メアリーは1780年12月26日、スコットランドのジェドバラに生まれた。
数学者として知られるメアリーだが、幼少から数学を学びはじめたわけではなかった。
彼女の両親は特に英才教育を受けさせることはせず、それどころかむしろ放任主義だった。自然を愛したメアリーはのびのびと好きなことをして過ごした。
おかげで10歳まで本も読めなかったメアリーだったが、エディンバラへの短期間の引っ越しを機に算数、ピアノ、ラテン語を学ぶ機会を得た。
もとの場所へ戻るとこれらの学びは中断されてしまう。10代半ばのメアリーのなかに芽生えた向学心が途絶えることはなかった。
そんな中、メアリーは偶然雑誌の中で数式を目にする。一緒にいた友人がそれが代数であることを教えてくれた。初めての数学との出会いはメリアーを突き動かした。
もっと知りたいと願った彼女は自宅の蔵書から調べ始めた。残念ながら目当ての本はなかった。数学を知っていそうな知人を思い浮かべようとしたが誰もいなかった。
そんなとき2つの偶然がメアリーを救う。
彼女は絵画とダンスを習いに行っていたが、絵画のレッスン中、校長がある生徒に「遠近法についてはユークリッドの『原論』を学ぶとよい」と助言するのを耳にした。書籍は今ならすぐに手に入るところだが、当時、娘が本屋に数学の本を買いに行くなど許されないことだった。
一番下の弟の家庭教師がメアリーの数学の実力を知り、ユークリッドをメアリーに持ってきてくれた。喜んだメアリーはユークリッドの第1巻の定理から証明を始めた。
そのあまりの熱中ぶりに、母親はメアリーのロウソクを取り上げ、勉強できないようにしたほどだった。かくして、彼女は第6巻まで証明を終わらせた。
1804年 24歳
1804年、24歳のメアリーは結婚した。2人の息子を産んだが2人とも幼くして亡くし、1807年には夫とも死別した。
生まれ故郷に戻ったメアリーは、夫の遺産のおかげで生まれてはじめて経済的に自立。
心機一転、数学と天文学に取り組み、平面・球面三角法、円錐曲線、J・ファーガスンの『天文学』をものにした。
そんなメアリーに大きな転機がやってくる。
1811年 31歳
1811年、31歳の彼女は雑誌『数学宝庫』の懸賞問題(ディオファントス方程式)に応募し当選を果たす。
数学の研究を続けていきたいことを打ち明けたメアリーに編集長は有益な助言を行い、必要な数学書を推薦してくれたのである。
かくして33歳になったメアリーはやっと自分で手に入れた数学書を抱きしめた。
本コラム冒頭の言葉は以下のように続く。
それは決して絶望するなということをおしえてくれました。私はもう学ぶ手段をもっていました。私はますます研究を続けました。
(中略)
私の行動は、多くの人々に、とくに私の身内の何人かからは、ひどく批難されました。私は独立していたので彼らの批判は気にかけませんでした。1日の大部分、私は子供の世話をし、夜、研究しました。
1812年 32歳
1812年、32歳のメアリーは再婚。外科医の夫はメアリーを理解し支援してくれた。
ロンドンの家が英国王立科学研究所に近いところにあったおかげで、メアリーはフランスの数学者ピエール・ラプラスと知り合いになり天文学と微分積分学を論じ合った。
ラプラス曰く「私のことを理解してくれる女性は3人だけです。サマヴィル夫人、あなたと、カロライン・ハーシェル、それから何も存じ上げていないのですけれどもグレイグ夫人とかいう方です。」
1人目のサマヴィル夫人と3人目のグレイグ夫人が同一人物(メアリー)であることをラプラスは知らなかった。
1826年 46歳
1826年、46歳のメアリーは王立学士院に論文『太陽スペクトルの紫外線の磁性の特性』を提出。最初の結婚の時から取りかかっていたので完成まで20年かかったことになる。
これがきっかけでラプラスの『天体力学』(仏語)の英訳を頼まれ、1931年に刊行された。
メアリーは当初英訳の仕事に不安を持っていた。大学にも行っておらず本も書いたことがなかったので無理もない。
しかし彼女は引き受けた。全身全霊の忍耐と能力と決意を総動員して仕事をやり遂げた。
メアリーの翻訳と注釈は分かりやすい語で書かれ、微分積分学を知らない人たちにも理解できる本となった。
はたして、この本のおかげでラプラスが普及するとともにメアリー自身も有名になった。メアリーの著作は理論物理学者マクスウェルや数学者・天文学者アダムズらにも影響を与えた。
天文学者・数学者のジョン・クーチ・アダムスは、天王星に摂動を与える惑星があるというメアリーの仮説を彼女の本で知り、海王星の軌道を計算し位置を予測した。
1846年、予測通りに海王星が発見された。
1872年11月29日 91歳
その後、メアリーには王立天文学会初の女性会員選出などいくつもの栄誉が与えられた。彼女には並外れたバイタリティと数学に対するあくなき探究心と強い意志があった。
どんなに家族に理解されなくても、子育てが大変でも、輝かしい学歴がなくても、メアリーは91歳で亡くなる直前まで自分の心に忠実に、やりたいことを貫いた。