地図マニアな日々

災害を後世に伝える

新たに設けられた自然災害伝承碑の記号

国土地理院が新たな地図記号「自然災害伝承碑」を定め、2019年6月から地理院地図で公開している。同9月からは2万5千分1地形図にも掲載が開始される。

自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波や洪水、火山災害、土砂災害といった自然災害を記憶し、後世に伝えるために設けられた石碑やモニュメントで、災害の様相や被害の状況などが記載されており、当時の被災場所に建てられていることが多い。

自然災害は土地の性質と深くすることから、同じような場所で同じような災害が繰り返される傾向が強い。筆者は2014年に、東日本大震災の被災地である三陸地方の復興を応援する趣旨で「三陸たびガイド」という旅行ガイドをマイナビから出版している。その取材のために何度も現地を訪れ、歩き回ったのだが、数多くの津波記念碑が残されていたことが印象に残っている。

同地では明治以降だけでも、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸地震津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)、そして東日本大震災(2011年)と4回の大きな津波被害が発生している。こうした経験から、地元では後世に津波の被害への注意喚起を記念碑として残したのだ。

「此処より下に家を建てるな」

岩手県宮古市は本州最東端の市として知られるが、その最東端にあたる場所が重茂半島のトドヶ崎(トドは魚へんに毛)だ。ここに立つトドヶ崎灯台は1957年の映画『喜びも悲しみも幾歳月』ゆかりの場所であり、佐田啓二が演じる灯台守とその家族を描いたこの映画は、トドヶ埼灯台で7年間を過ごした灯台守の妻・田中キヨの手記をもとに製作された(ただし映画にこの灯台は登場しない)。

この場所を訪れるのはなかなか大変だ。というのも車道が通じておらず、最寄りの姉吉という集落から自然歩道を90分近く歩かなければならない。宮古駅からこの集落までも1日2本のバスで75分かかるので、行こうと思うとそれなりの覚悟がいる。

姉吉の集落から一旦海の方へ出て、そこから自然歩道が始まるのだが、その道の途中に地形図上で自然災害伝承碑を確認することができる。

宮古市の姉吉に残る自然災害伝承碑(地理院地図)

災害伝承碑の記号をクリックすると名称や写真が表示される(地理院地図)

さらに画像をクリックすると、災害伝承碑に書かれた文言など詳細を見ることが可能(地理院地図)

この記念碑は大津浪記念碑と呼ばれ、1933年の昭和三陸地震津波の後に設けられたる災害記念碑だった。標高60m付近(海からの距離はおおよそ800m)にあるこの石碑の碑文は、明治三陸地震津波と昭和三陸地震津波の被害を伝える内容で、「此処より下に家を建てるな」と記されている。

そして地形図を見ても分かるように、実際に集落はこの記念碑よりも上に位置している。もともと海岸沿いにあった姉吉集落は、明治三陸地震と昭和三陸地震の2つの津波で大きな被害を受け、現在の場所へ移転している。漁業者の集落であるにもかかわらず、石碑の教えを守り続けて、舟はわざわざ車で運んでいるのだという。

この姉吉地区、実は東日本大震災では津波の遡上高が40.5mに達し、日本の観測史上最大を記録しているだが、集落は被害を受けていない。

東日本大震災の被災地には実に多くの災害記念碑が残っているのだが、姉吉のように徹底的に先人の教えを守った例は珍しいのではないのだろうか。

記憶が薄れつつある多摩川水害

我が家の近所を多摩川が流れている。休日になると土手でジョギングやサイクリングを楽しむ人や、河川敷で野球やサッカーに興じる人など、平和な光景が展開される。しかしこの多摩川も元々は暴れ川だった。そしてそう遠くない45年前にも、大きな水害をもたらしている。1974年(昭和49年)8月31日から9月1日にかけて、台風16号による豪雨で発生した多摩川水害である。狛江市で堤防が決壊、19戸の民家が濁流に飲まれた。

8月31日から多摩川上流は記録的な豪雨となり、多摩川は増水を続けた。狛江市では9月1日の「防災の日」に予定していた防災訓練を天候悪化で中止にしたが、まさか予定されていた訓練が実戦になるとは予想していなかっただろう。9月1日には多摩川は警戒水位を越え、多くの市民がこの様子を見に集まっていた。狛江市では河川敷内にある施設の撤去を行った。

昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸河川敷にあった堰堤取付部の小堤防が決壊する。この堤防は、古い堤防を補強しただけのもので、強度が足りなかったとされる。木流しや土のう積みなど市職員、消防署、消防団の人力による水防活動が懸命に行われたものの、この破堤をきっかけに激しい迂回流が発生、夜には本堤防が数百mにわたってえぐり取られ、住宅地に濁流が流れ込んだ。

2日未明には民家がついに倒壊、2軒、3軒と濁流にのみ込まれ、最終的には19戸が流失する。その模様はテレビで中継されており、全国の人が目の当たりにすることとなった。

被害拡大を食い止めるため狛江市は自衛隊の派遣を要請する。自衛隊は本流の流れを遮っている堰堤の爆破を試みたが、付近の民家のガラス窓を損傷しただけで堰堤はびくともせず失敗。4日になって建設省(現・国土交通省)が堰堤中央部の爆破に成功したことで、破壊口に流れを向けながら、ようやく迂回流の締め切り作業が行われた。(参考文献:狛江市HP「悪夢のような多摩川堤防決壊」

決壊当時の様子(狛江市HPより)

決壊前後の地形図。左が昭和42年、右は昭和51年(今昔マップon the webより

堤防の復旧後、国は流失した住宅地を補修し、爆発時に生じた二次災害の補償は行ったものの、流失家屋などについては補償の対象とはならなかった。このため被災住民は、多摩川を管理する国に対し、国家賠償を求めて提訴する。この狛江水害訴訟は1976年(昭和51年)から1992年(平成4年)まで16年間にわたって争われ、一審から差戻し控訴審まで計4回判決が出された。最終的には、管理者が予見可能であったのに対策を講じなかった人災であるとし、国に5億9000万円余りの損害賠償を求める判決が確定した。

この災害で家のほかにアルバムを失ったことがショックだったという被災住民の話から、脚本家山田太一が「岸辺のアルバム」を新聞に連載し、1977年(昭和52年)にはテレビドラマ化された。ドラマの最終回は洪水によって家が流される報道映像で終わっている。

多摩川の破堤はこの1974年多摩川水害以降起こっていない。しかし堤防は常に私たちを守ってくれるわけではない。

現在、当時最初に決壊した堤防の跡には「多摩川決壊の碑」が建てられている。あれから40年、住民の世代交代も進む中で碑の意味はいったいどれだけ伝わっているのだろうか。新たに地図に掲載されたことで、地元の人たちが関心を示してくれたらいいのだが。

地理院地図に掲載された「多摩川決壊の碑」

執筆者ご紹介  遠藤宏之(えんどうひろゆき)様
地理空間情報ライター(地図・地理・測量・GIS・位置情報・防災)、測量士、GIS NEXT副編集長
著書:『三陸たびガイド』『地名は災害を警告する』『首都大地震揺れやすさマップ』(解説面)『みんなが知りたい地図の疑問50』(共著)他

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