misfits(はみ出し者)2

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2017年11月10日


ニコラス ネグロポンテ様のご講演「misfits(はみ出し者)」第2回は、MITメディアラボの設立経緯やラボに集うユニークなはみ出し者たちのご紹介です。

メディアラボの設立

メディアラボの設立には日本が深く関わっています。当時私は自分の研究室を持っており、スタッフも増え規模も大きくなっていました。この時偶然の出来事がありました。人生とは不思議なもので、ほんの小さな偶然が人生を大きく変えることがあるのです。この偶然はMITの学長室で起こりました。私の研究室は学長室と学長専用車の駐車場との真ん中くらいにあったので、研究室の前をよく学長が通っていました。彼が当時の学長、ジェローム・ウィーズナーです。

研究室には色々なものが飾ってあり、いくつもの部屋がありコンピュータもあってワクワクするような空間で写真栄えする建物でした。彼はこの研究室をとても気に入っていて、来客があるたびにここに連れてきていました。ウィーズナーはジョン・F・ケネディと幼なじみで親しい間柄でした。ケネディは大統領就任1年目にウィーズナーを科学顧問に任命し、日本の電機業界の再建支援を命じました。ウィーズナーは当時まだ経済面で発展途上にあった日本に赴き、電機メーカーの人たちへのアドバイスを通じて再建を手助けしました。1960年初頭このような任務での来日は重要な意味を持ち、これがのちにメディアラボの設立につながります。

 メディアラボ初期のはみ出し者たち

さて、学長としてのウィーズナー(写真左上)の話に戻りましょう。実は、彼ははみ出し者が大好きだったのです。メディアラボをMITの中で最もユニークで面白い研究室にするには、他の研究室からはみ出している人を集めればいいと考え、このグループを「Salon des Refuses(はみ出し者の集い)」と名付けました。初期に在籍していたはみ出し者を何人かご紹介しましょう。 20171114_3

まず、数学者のシーモア・パパート(写真右上)。数学者であると同時に発達心理学者でもあり、子供がどのように学ぶかを研究しました。人工知能(AI)研究の第一人者であるマーヴィン・ミンスキーとともにMITに人工知能ラボを設立しました。その後、メディアラボの設立メンバーとなりました。昨年はシーモア・パパートとマーヴィン・ミンスキーが亡くなるという、とても残念な年でした。

マーヴィン・ミンスキーは人工知能という言葉を考案しただけでなく、この分野に多大な貢献をしました。シーモア・パパートとともに知能と心理の相互作用による理論を開発しました。そういった功績を残せたのもウィーズナーの支援があったからこそだと思います。また、ビデオやフィルムの分野では、リチャード・リーコック(写真左下)が活躍し、グラフィックデザイナーのミュリエル・クーパー(写真右下)は、MITの出版局「MIT Press」のロゴデザインで有名です。

このように、発達心理学者、人口知能研究者、映像制作者やグラフィックデザイナーといったさまざまな分野の専門家たちから成るラボが創設されました。彼らは皆はみ出し者であると同時に特定分野のプロフェッショナルですが、こういった異能の人材が集結していたことはとても不思議なことでもあります。

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再び、話をウィーズナーに戻しましょう。ウィーズナーは通信分野のエンジニアであると同時に、美術への関心も高い人物でした。ある時、いつものようにラボのそばを通りかかった際「ニコラス、私はMITの学長をやめようと思っている」と言ったのです。「会長になるのではなく研究者に戻ろうと思う」と言うのです。学長をやめたら会長に、会長をやめたら名誉会長になるのが通常の流れなのですが、彼は研究職に戻ると言うのです。「ただ、自分の研究室がない」というので、私は「じゃあ、僕が作ってあげよう」と言いました。「僕が研究室を設立してあげるよ。研究者たちは皆んな君と同じ、はみ出し者だよ。」

MITは資金調達に関して非常に厳しいところで、研究室の設立や維持に必要な資金援助を、MIT内の他の人のスポンサーから受けることができないのです。したがって、新たなスポンサー(友人)を見つけなくてはいけません。ウィーズナーが「日本に友人がいる」と言うので、1981年、私は彼とともに来日しました。すると、1960年代に彼が科学顧問として来日して支援した人たちが社長や会長になっており、その恩返しのために資金を援助してくれました。そのおかげでMITメディアラボが設立できたのです。

新しい技術の幕明け

1960年代は技術の転換期でした。さまざまな技術が進歩し、色々な研究ができる環境が整いつつありました。こういった流れの中で、1985年メディアラボを設立しました。創設記念イベントで講演したのは、当時まだ無名だったスティーブ・ジョブズでした。私は彼と旧知の仲であり、彼はウィーズナーと知り合いになりたかったのです。そして、彼はこの創設イベントで講演し、その時はあまり裕福でなかったにもかかわらず、個人的に出資もしてくれました。 

クリエイティブユーザーが発明者

メディアラボは、クリエイティブユーザーが特定の技術を創出する場である点が大きな特長です。写真の歴史を見ると、概して技術革新と科学的な発明によって進化してきましたが、発明を促してきたのは写真家たちです。写真家たちは、より高い解像度や光感度、動きや色を要求するからです。だいたいの場合、写真術分野での発明とクリエイティブな利用とが非常に密接に関わり合っています。一方、テレビの進化はというと、いろいろな面で科学者や科学技術者によって進化が促され、ある程度進化すると、多かれ少なかれ垣根を越えてエンドユーザーの所へ行くのです。1980年代、プレゼンや講演で私がよく言っていたことですが、コンピュータは写真家のようなものでした。コンピュータの進化によってさまざまなものが発明されてきました。

日本人のはみ出し者たち

石井裕

NTTはメディアラボの初期のスポンサーでした。当時はまだ国営でしたが、いくつか研究所を持っていました。研究所を初めて訪問した際、NTTの職員は、研究員はいますが研究テーマがあまりにばかげているのでお見せしたくない、と言いました。次に訪問した際、私にその研究員を紹介してくれましたが、本人はクローゼットに閉じ込められていました。NTTは彼の研究があまりに奇妙なので外部の人間に見せないようにしていたのです。このように、当時彼はNTTにとっては厄介者だったのです。私は彼に「MITに来るといいよ」と言いました。「君の研究はここでは認められていないようだけど、MITでは歓迎されると思うよ」と言いました。このように、我々は日本で東芝、三菱、日立といった大企業からの資金援助獲得に加え、人材発掘も始めたのでした。

ジョン・マエダ

彼はアメリカ生まれの日系人です。元々はデザイナー志望でしたが、MITでソフトウェア工学も専攻したいと思っていました。彼の両親は彼に教育を受けさせることを生きがいに身を粉にして働いていましたので、MITでソフトウェア工学を専攻することが決まると大喜びしました。ところがデザイナーへの夢も捨てきれず、美術系か工学系か進路に迷って、ある日私のところに相談にきたので、私は「工学系に進むのはやめたらどうか」と言いました。結局彼はソフトウェア工学専攻をやめて美術のほうに転向し、私は両親にひどく恨まれました。MIT卒業後、彼は日本の大学で芸術を専攻し博士課程も修了して日本で就職しました。そんな時、創設メンバーであるミュリエルクーパー(グラフィックデザイナー)が亡くなったため、新たにグラフィックデザイナーを採用しなければならなくなりました。誰を採用したと思います?彼です。両親は大喜びして、今度は大変感謝されました。

伊藤穣一

5人でスタートしたメディアラボも、25年経つと800人のスタッフを抱える組織になりました。人間が長い年月ずっと同じ人格であり続けることが難しいのと同様に、メディアラボも時代の流れの中で移り変わり、設立から25年経って新たな所長を探すことになりました。自分の後任を探す場合、通常自分と共通点がある人物、話が合う人物を探しますよね。後任探しをしていた当時、あと5年早かったら私もそうしていたと思います。

選考を開始して6ケ月経った頃、伊藤攘一の名前が候補に挙がりました。誰か彼を知っているかと言うので、彼が10代の頃から知っているよと答えました。しかし、選考委員会の他メンバーは、彼は大学は中退で修士課程も博士課程も修了していないし、DJをしたりベンチャー投資会社を経営したりという経歴で所長にはふさわしくない、と言いました。私は「応募してくださってありがとうございました。あなたは所長にはふさわしくないので不合格です」というメールを送っておいてくれ、と言われました。その時10月だったのですが、私は「ふさわしくないので不合格」ということは伏せて彼にお礼メールを送りました。

それから、11月が過ぎ、12月、1月、2月になってもこれといった候補者が見つかりません。そこでもう一度応募者リストを見直すことになりました。その過程でまた伊藤攘一の名前が浮上しました。彼らは前のことはすっかり忘れ、誰か彼を知っているかと言うので、知っているよと答えました。連絡をとってくれといわれたので、彼に「今どこにいる?」とメールしました。すると「今、バハマでスキューバダイビングをしている」と返信があったので「MITの新しい所長候補に君の名前が挙がっているよ」とメールすると、彼は2日後MITにやってきました。彼は非常に礼儀正しく知的な人物であり、同時にはみ出し者でもありました。そこが重要なポイントでした。当時、選考委員会のメンバーは彼が新所長になることを危惧していましたが、就任後の5年間ですばらしい成果を挙げており、非凡な才能があることを証明しています。創設メンバーは親、メディアラボは子供のような存在ですが、とても面倒見の良い人なので安心して子供を任せられます。偉大なるジョイです。

スプツニ子!

もう1人、最近メディアラボに加わったのがスプツニ子!です(本名は違うと思いますが)。大変面白いアイデアの持ち主で、ユニークな研究を行っています。これは未来の車工場の図です。この絵を見て、彼女は車を1つの部品から作れないかな、と言いました。3Dプリンターで成形するという意味ではなく、成長したら車になる種が作れないかと言うのです。種を植えて、成長してできるのが野菜ではなく車というわけです。ばかげた発想に思えるかもしれませんが、このように彼女は人とは違った考え方をする人物です。20171114_4


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ご講演者ご紹介  ニコラス ネグロポンテ様
米国マサチューセッツ工科大学 教授
1985年、ジェローム・ウィーズナー氏と共にMITメディアラボを創設し、以後20年に渡り所長を勤める。
MIT卒業後、CAD研究のパイオニアとして1966年よりMITの研究室に在籍。
TEDトークには1984年の初登壇以降、13回講演。
1995年出版の「ビーイング・デジタル ビットの時代」はベストセラーとなり、40ケ国以上の言語に翻訳。
2005年、発展途上国の児童への教育を目的としたNPO「OLPC(One Laptop per Child)」を設立。
さらに、モトローラ社の役員を15年間勤めたほか、情報・エンターテインメント分野のデジタル技術を持つベンチャー企業への投資も行い、Zagats、WIRED社をはじめ、40社以上の企業設立をサポートした。

本記事は2017年3月27日現在のご講演内容を元に作成しています。