コラム

建築構法と建築生産研究の第一人者 内田祥哉氏が語る|和小屋の知恵とこれからの和構法

本記事は、インフォマティクス創立35周年記念講演会(2017年3月27日開催)に登壇された内田祥哉様のご講演資料「和小屋の知恵とこれからの和構法」を、ご本人のご承諾を得て掲載したものです。

町家のフレキシビリティー

最近は洋風の生活に慣れた若い世代が増え、伝統的な木造建築の中での生活が少なくなってはいるが、日本人は木造住宅が好きだといわれてきた。

都会の住宅が鉄筋コンクリート造や鉄骨造になっても、内装には木を使いたがるし、畳を敷いて床の間をつけた和室も一部屋くらいは欲しいという人が多い。

木造建築と日本人の生活との間には、目では見えない切っても切れない縁ができている。そうした中には、日本人がまるで意識にとめないでその恩恵をうけていることがたくさんある。

日本人は、日本の木造建築が長い年月の間に蓄えて来た生活の知恵を、少し粗末にしすぎていると思う。それは豊富な水に恵まれていた日本人が、水のありがたみを知らないでいたのと似ている。

明治以来洋風建築は開き戸か、上げ下げ戸ということで、公共建築はもちろん、ハイカラな住宅の窓は、すべて開き戸という時代もあった。

しかし、最近では引き違いのよさが見直され、金属のサッシも引き違いが多くなり、住宅はもちろん、学校やオフィスの窓や、出入り口には、それにふさわしい引き違いが使われるようになってきたし、海外の建築にも、引き違いが使われるのを見るようになった。

他方、日本では、金属サッシが普及して、木製建具の断熱性のよさも忘れていた為に、金属サッシにつきものの結露になやまされている建物も多い。

ヨーロッパ、特に寒い地方では、断熱性のために、金属より木製が好んで使われているということは、日本ではほとんど知られていない。

和風建築の引き違い戸の素晴らしさは、軽く動くこと、そして扉何枚もの大きな開口を簡単に開閉して、空間構成を瞬時に変えられるフレキシビリティーである。

その見事な装置は、日常的空間が非日常的利用にまで簡単に変換できることである。このことが、外国人を、特に専門家を驚かしている。

日本の引き違い戸の効果は、海外の専門家筋にもよく知られている。しかし、彼らが日本建築の図面を持ち帰って造ってみると、日本の襖のように軽く動くものができない。

その理由は材料の違いもあり、大工技術の違いもあるので、うまく説明できないが、外国の材料や職人を使って引き違い戸を造るのは難しいのである。

東京お茶の水にある聖橋からニコライ堂に向かって坂を下ると、道路を隔てた反対側の崖下に、ついこの間まで二軒長屋が数棟建てられていた(千代田区神田淡路町;2012年取り壊し)。

関東大震災後の焼け野原にたてられたもので、都内どこにでもあったような普通の長屋だが、再開発事業で取り壊しが決まっていた。

以来建築家協会関東信越支部千代田地域会の有志によって、その建設から取り壊しまで約 80年間の、かなり詳しい貴重な記録が作られた。それによって、大正・昭和にまたがる時代の普通の民家の、自在な増改築の様子が、明らかにされている。

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図1-1 建設時の平面図

1-2図1-2 取り壊し直前の平面図

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図2 取り壊し直前の外観

注1:間取りを画いた簡単な平面図などに必要なことを総て書き込んだ書類を「指図」と呼ぶ。「指図する」等の言葉の語源と言われている。

図1-1は建設当時の配置と平面図で、同型の建物が整然と並んでいた。

これを、取り壊し直前の図面(図1-2)と比較すると、それぞれが、勝手な増改築によってその内容が大幅に変わっていることがわかる。

変更された部分に色をつけてみると、その面積は全体の半分近い。先ず、階段の向きは殆ど変わっている。それに伴う間仕切りの移動は当然であるが、それらは、いわば内装の変更で、海外でもめずらしくない。

しかし左の家では、一階の土間を改造するために柱を動かしているし、敷地にわずかの余裕のある右の家は、部屋を広くするために外壁を押し出し、柱も移動している。

かつての日本では、都会の中にも大工がいたし、現場の仮囲いの習慣が無かったから、壁を動かしたり、柱を動かす住宅の改造工事を見るのは、日常茶飯事だった。

しかし、外国人、特に専門家にそれを見せると、びっくりされる。柱と梁がある日本建築で、壁が動かせるのは納得できても、柱を動かすのには納得できないようだ。

しかも、改築の後で、柱や壁を動かした痕跡が残らない。その新築さながらの出来映えは、オフィスビルの可動間仕切りのようである。

このシステムの素晴しさは、もう一つ、素人の画いた簡単な指図(注 1)で、改造できることである。

素人が、大工の実現できる範囲を心得ていて、それを図に画いて説明できるからで、日本人にとっては増改築が気楽にできることは、当然すぎるほど当然と思われていた。

だから、最近鉄筋コンクリート造のアパートに住んでいる人が、木造のように増改築ができないという不満をもらしたり、ブロック造やプレハブの住宅に住んでいる人が、ちょっとした増築をするときのやっかいなことに気づいて、不満を漏らすのである。

増改築の仕掛けと「畳モデュール」

真壁造の建築が、増改築を容易にできることについて、誰もが気づくのは、柱梁構造なことであろう。柱梁構造というのは、柱と梁が建物を支える主要な構造材だから、壁は取り払えると考えるのである。

それに対して、煉瓦造やブロック造、木造でも校倉造りのような組積造は、壁が建物を支える主要な構造なので、壁を動かすことは容易でない。

特に煉瓦造のように重い壁や、校倉造りのようにしっかり組み合わさっている壁は、簡単に移動することは考えられない。

だから壁構造の増改築は、ほとんどの場合難しいのは当然である。では、柱梁構造なら総ての建物が増改築を簡単にできるかというと、そうではない。

柱梁構造の鉄骨造は、壁構造とは違うので、壁を取り除くことは簡単である。しかし壁を取り除いても太い柱が残ると、これは簡単には動かせない。壁が動かせるからといって、間取りを白紙の上に画くようなわけにはいかない。

それは木造の柱梁構造の場合でも同様で、社寺建築のように柱の太い建物では、柱が空間のなかに存在感として残るので、柱が太いと、壁が動かせるからといって、間取りが自由にできるというわけではない。

日本の木造真壁造りの住宅は、柱が細く、壁の厚さの中になじませているので、柱梁の構造といっても、実質上は壁構造で、しかも、部屋の中に、柱が出っ張ることがない。

しかも増改築のときには、その柱を壁と一緒に動かしたりするので、壁構造の壁が簡単に動かせるシステムと言った方が適当のようだ。つまり、日本の木造真壁造りの住宅の壁や柱は、例えればオフィスビルの可動間仕切のようなものであるという見方が出来る。

オフィスビルの間仕切りと違うのは、柱が垂直荷重を受け、壁も水平力に耐えていることである。そのためには柱や壁が、移動できるといってもオフィスビルの可動間仕切ほど自由ではない。しかし、他の構造では考えられないほど簡単に、それらが動かせる仕組みを持っている。

ところで日本の木造民家は、増改築が自由自在といっても、どんな間取りにも対応できるわけではない。例えば宴会のできるような大広間を作ったり、丸や三角の部屋が作れるわけではない。

それにもかかわらず、増改築が自由だというのは、日本人が住宅の間取りを考えるときには必ず約 90センチメートル(三尺)程の方眼紙を下敷にして間取りを考え、八畳か十畳以上の部屋は特別な場合以外作らないという常識があるからだ。

自由自在はこの常識の範囲で許されているのである。

三尺という寸法単位は、畳の大きさを基準にした「畳モデュール」で、世界各国で考えられている建築モデュールの中では、最も大きい方である。

生活空間の大きさとしても、よく考えられていて、半畳が人一人座ったときの広さ、二畳が、人一人立ち振る舞いの占有広さという目安がある。

その広さは、古来、経験から広く社会的に納得されてきたもので、例えば能舞台の床面での所作も「畳モデュール」で割り付けられているといわれる。

実は「畳モデュール」の寸法は、厳格に決まっているわけではない。地域的にも様々で、関西では 96cmあたりが多く、あるいは、それ以上のものもある。それなら、もっと広ければもっとよいかというと、それは、一口では説明できない難しい問題になる。

戦後間もない住宅公団の、鉄筋コンクリートのアパートのモデュールは、壁の心から心までを90cm(三尺)にして造ったために、壁の厚さで部屋の内法が狭くなり、畳の寸法が 80cm近くに狭められた。

これでは、日常生活に窮屈という批判が絶えなかった。また、戦後の高層建築(霞ヶ関ビル1968)は様々な角度からコストを検討して、柱間が、80cmモデュールで設計された。

これは公団の 80cmモデュールとはまったく別の理由だが、その影響でその後の多くの高層ビルが、部品の共通化を図るために 80cmモデュールを採用している。

しかし、長い間、何となく狭いと言う感じを我慢していた。最近になって、新丸ビルの高層部門は、90cmモデュールで設計されている。これは、わずか 10cmの違いではなくて、「畳モデュール」の深い内容が、時間を掛けて現代オフィスビルのモデュールに理解されるようになったからである。

日本人は、畳を基準に、より大きな生活空間に対しても民族的に共通の認識を持っている。例えば、四畳半、六畳、八畳、というような広さについて、どんな生活所作ができるかという、共通理解がある。

オランダの建築学者ジョン・ハブラーケンは、このことを指摘して、日本の事情をうらやましいと云っている。このような法則を日本人の生活になじませたのは、いうまでもなく、真壁造りである。

「畳モデュール」は、生活空間に対してだけでなく、生産者にとっても都合のよい寸法単位である。

畳の場合は、三尺・六尺の大きさが、人一人で持ち運ぶ最大に近い大きさであり、建具のような面材にしても、三尺巾は扱い易い限界、柱や梁のような長物も、六尺までは一人で持てる、というふうに生産者側から見ても手頃な寸法である。

三尺という寸法単位が比較的大きい基準となっているために、生産者にとって、半端な寸法の物を多数用意しないで済むこともあり、これが、生産コストに与えている影響は計り知れないうま味である。

ヨーロッパには、煉瓦以外に寸法の下敷になるものがなかったから、建具にしても、床の敷物にしても、日本の建具、畳のように大きな寸法で規格化された既製品が作りにくかったのである。

3図3 加藤家住宅

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図4 加藤家住宅平面図

「畳モデュール」の真壁造りは増改築をしても以前に使っていた材料が転用できるし、柱にしても梁にしても、特別な寸法のものを必要としない。

また、部屋の大きさが八畳か十畳以下ということであれば、梁の長さは 3.6メートル(二間)以下だから、それを受ける柱の太さも 12センチメートル(四寸)ほどで納まる。

柱が 12センチメートル角程度の太さであれば、それを壁の最大の厚さと考えてもよく、柱が壁より出張るという感じがない。つまり柱が壁の厚さの中に埋め込まれた感じで間取りが作れるのである。

日本人は真壁造りの間取り造りの作法になじみ、その範囲で不自由を感じていない。ここに増改築自由が成立する共有認識としての社会条件が秘められている。

真壁造りを普及、展開させた書院造りは、昔は貴族か武家の一部に限られていたが、江戸の末期になれば、商家、町家、そして豪農の家にも普及した。

それが明治、大正、昭和になると、住宅に床の間のあるのは当たり前というほどになり、日本風の伝統的木造建築は、外面壁以外はすべて真壁造りで造られるようになった。

和小屋のうま味

実は、日本の民家の中にも、増改築が自在でなかったものがあった。茅葺屋根の農家の間取りは田の字形の四つ間取りというものが多い。

その屋根は、長い丸太を合掌に組み合わせている扠首構造で、この家を拡張しようとするときは、庇を四周に出すのだが、長く出せば天井が低くなって、使いものにならない。

もう一つ、近代的な小屋組みを代表するトラスがある。

トラスは三角形の小屋裏空間を利用して組立梁を造るもので、細い材料を組み立てて、大きな梁間を渡すことができる。殆どのプレハブ住宅の原型は、小屋組みにトラスを用いていた。

間取りが矩形のように梁間が一定の建物の時には、トラスは極めて好都合だが、間取りが、複雑な形であったり、増改築しようとするときには、大変面倒なことになる。

そこで注文に応じ様々な間取りを造る場合のプレハブ住宅での小屋組はトラスを止めて、大梁を使った和小屋風の小屋組を使うようになっている。

図 3,4は、扠首構造の農家が、自由な増築をするために屋根を扠首構造から和小屋にかえた例である。

増改築前の間取りの中には、合掌造りの四つ間取りの形が残されているのが読み取れる。地方によっては合掌梁を降ろすという意味で「棟おろし」と呼んだり、あるいは和小屋を上げるという意味で「棟上げ」と呼んでいるという。(玉置伸吾:福井の住宅 福井の科学者 37号 1983)

結局、複雑な形の平面形に適しているのは、和小屋と言うことになる。それでは和小屋のどこが複雑な間取りに適しているのだろうか。

和小屋は、柱の上に梁をのせ、その上に束を立てて屋根の形を作るもので、近世の神社仏閣を始め、宮殿、武家屋敷から、町家に至る、殆どの日本建築の小屋組は、和小屋であるといってよい。

和小屋は、どんな複雑な間取りの屋根もできるから、もちろん「寄棟」の屋根は楽にできる。

「寄棟」というのは雨水の溜まる谷を造らない。雨仕舞よくまとめられる屋根形で、言い方を変えれば、屋根の周辺の輪郭から同じ勾配で等高線を重ねるようにして出来る屋根形でもある。

合掌梁や、トラスのように、平面形を規制しないので、これによれば自由な間取りに対応できるのである。

複雑な形の建物に掛けられた寄棟屋根は、一見加工に手間が掛かりそうに見えるが、棟とか軒先という特殊な部分に必要な部品の種類は意外に少なく、最大14、普通は 10種類以下の役物(特殊な部分のための部品)を用意しておけば足りてしまう。

例えば「レゴ」のような規格化されたブロックを使っても、あらゆる場合を造ることができる(図5)。

実際の建築では、母屋、束等は、それぞれ同一断面の材ですみ、場所によって、寸法を変える必要があるのは、長さだけである。だから増改築によって屋根の形を変えても、ほとんどの材料が流用できる。

事実小屋組に古材が使われている例は枚挙にいとまがないし、むしろ増改築の時の新調材は補足材に限られていることが多い。

また、和小屋は、外観構成を作るのが、極めて自由である。

例えば、入母屋造りは、合掌造りの屋根の下に庇を伸ばした形で発生したものといわれているが、和小屋で入母屋造を創る時の発想は、まず、寄棟屋根を造り、その上に三角形の切り妻破風をのせた姿と考えるのが自然である。

そこで、合掌造りからの発想では考えられないような屋根形も創られる。

例えば、入母屋の切り妻破風を大きく見せるためには、切り妻破風の面格子を、外周柱より更に前に出して、庇の上に乗せる場合すらある。

さらに、三角の切り妻破風は、何処にでも付けられるから、平入りの場合は平入りの正面に、入り口が中央でなければ入り口の真上に付けられて、入り口を誘導する役割を果たすこともできる。

さらにこれを四方に付けると、四方を睨んだ城の外観構成にもなるのである。

和小屋の陸梁は、柱の頭を水平に繋ぐだけでなく、その上に束が畳モデュールによる規格格子に従って縦横に並んで立つように小梁が掛けられている。

こうしてできた屋根架構が、これもまた、畳モデュールによる真壁造りのシステムと重ね合わさることによって、土台から屋根まで、壁も含めて畳モデュールの単位格子で構成される。

この、畳モデュールの単位四角柱(図6)は自由に組み合わせ分解ができるので、これが増改築を自在にするメカニズムである。

ここで重要なことは、梁が柱の頭を繋いでいるとはいえ、柱の位置は、二次元に展開する三尺間隔の「畳モデュール」によるグリッド上の何処にあってもよい。

位置が移動しても、建物全体に対して水平力を支える壁の長さと、垂直力を支える柱の断面積がバランス良く足りていればよいという考えで、これが柱や壁を移動する時の約束である。

5図5 レゴで作った寄棟屋根
(製作・撮影 深尾精一)

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図6 畳モデュールの単位四角柱

和小屋のルーツ

ところで、和小屋は何時、どうしてできたのだろうか。

「建築設計資料集成10(58年版):日本建築学会」によると、和小屋を横架材の上に束を立てただけのものとすれば、8世紀の頃からあるが、束の間隔が一定になるのは12世紀頃で、当麻寺の本堂が二つの棟を一つに纏めて屋根型を作るっているのがよく知られている。

これらは、いずれも雨仕舞が目的で、雨の多い日本だからこそ考案されたものと思われる。

また、日本では早くから天井を全面に張る習慣があり、これが屋根と天井の構造を上下で分け、いわゆる野小屋の成立を促した結果、14世紀頃になると、野小屋の束の間隔が一定の間隔に立てられるようになり、今日の和小屋が成立したといわれている。

もちろん当初は、社寺・宮殿に使われていたのであるが、18世紀頃から細い束を貫で固めるようになり、これが大規模な民家に普及したと考えられている。

普通、和というときは、洋に対して云われるので、和小屋も洋小屋に対して作られた言葉であろう。この場合の洋小屋というのは、日本が欧米先進国から学んだトラスのことであろう。

しかし、考えてみると欧米でもトラスは近世にできたものだから、それ以前の屋根はどうなっていたのだろう。その中に、和小屋と同じものがあっても不思議でない。いささか気になることである。

ヨーロッパの民家を見て回ると、時に屋根を葺き替えているのに出会う。

その小屋組は、ほとんどが合掌造りで、その頂点から少し下がった所に横架材を渡し三角形に結んで大文字のAの形に固め、それを外壁の上に載せた臥梁の上に跨がってのせるのである。

ヨーロッパの民家をことごとく調べるのは不可能だが、ヨーロッパの木造建築に詳しい人(注2)による調査でも、そのようなものが殆どであると言う。

屋根のかたちは、切り妻だけでなく寄棟など色々あるが、屋根の架構は建物の外壁か側柱の上にのせているのがすべてといってよい。

ヨーロッパの民家には、煉瓦、石造、ログなど壁構造が多いためで、少なくとも和小屋のようなものは見つかっていないようだ。

他方、硬い木材を使う東南アジアの木造建築には太い梁を使う小屋組が見られるが、梁を重ねて屋根を造るものが多く、日本のように二次元に広がった等間隔の束を建てる小屋組は見当たらないらしい。

和小屋のような単純なシステムが、なぜないのか不思議だが、目下の所、和小屋は日本独特のものと考えておくことにしたい。

特に和小屋の定義を二次元に展開する畳モデュールのような平面格子上に束が並ぶものとすれば、これは、日本独特といって間違いなさそうである。

注2:太田邦夫:東洋大学名誉教授

和小屋は過去のものか

和小屋は、伝統的な日本建築の中で発達したものだし、畳モデュールの規格にゆだねるところがあるから、伝統的民家が減り畳も減る中で和小屋も消えるものかもしれない。

しかし、既に述べたように和小屋には数々の優れた魅力があり、その自由でフレキシブルな使い心地の良さは、他の小屋組では代え難いものがある。

特に、新築ではなく増改築が必要になったときに、和小屋が見直されることはありえそうだ。プレハブメーカーにしても、ツーバイフォーにしても、和小屋の魅力に目をつむっては居られないであろう。

現代建築の中に、木造の自然木を用いた和小屋と同じものを求めるのは無理であろう。ならば、現代の建材を駆使して、その思想を受け継ぐことを考える必要がある。

ミース・ファン・デア・ローエのバルセロナ パビリオン(Barcelona Pavilion 1929 Mies van der Rohe)は、鉄骨の梁をつかったものであり、その延長上には高層オフィスビルの可動間仕切りがある。

これらは鉄骨梁による広い無柱空間の実現で、可変間仕切りが可能になったものである。

それに対して厚くない壁で水平力を支え、目ざわりでない柱で垂直力だけを支える空間作りが見られるようになった。勿論、低層と言う枠の範囲であるが、床や屋根を支えながら可変空間を実現できる考えである。

図7及び注3は、筆者が大経木の大梁が入手困難な時代に(1987年)小径木を格子状に積層した格子梁で可動の壁・柱構造を試作したものである。だが、これは実用化には至らなかった。

近年増築された日土小学校新西校舎は、床を一様な背丈の梁で構成し、水平力は壁で、垂直力は壁と柱で受けると言う考えだから、「現代の和小屋」と言って良い。

壁を動かそうとする時には梁の構成を変える必要があるが、民家の和小屋もそれを気楽に変えているのだから、和小屋という思想の枠の中に入れておきたい。

最近竣工した JR熊本駅前広場のバス停の上屋は、鉄筋コンクリート造であるにもかかわらず、和小屋指向である。RC の床スラブを一定の厚さに押さえ、水平力は壁で垂直力は柱と壁で支える思想である。

ここに挙げた和小屋指向の共通する所は、床スラブの厚さが一定に押さえられているから、解体できれば柱、壁の位置を変えることも出来る。

垂直部材とスラブの結合がピン接合で曲げが無いことが条件である。結合が単純なら老朽化に対しても取り替えが可能である。

和小屋指向にはたとえ壁や柱の移動をしない場合でも、老朽化した部材の取り替えが可能、と言う別の特徴があることがわかる。

特に未だ確信の持てない鉄筋コンクリート造の耐久性保証にも貢献できる可能性を示唆している。

7図7 小径木を格子状に積層した住宅のための木造梁に関する開発研究 組立実験

注3:フラットスラブを、必要な壁と必要な柱で支持した構造
鋼板壁:106㎜:6㎜鋼板とデッキプレート
(D100㎜,t=4.5㎜をプラグ溶接で一体化)
屋根板:2.0m×2.0m
グリッド鉄骨格子梁 :最大スパン12m可能
梁:H200×200、H200×100
床:鋼板t=4.5㎜
鋼管柱:165.2Φ×19㎜

小径木を格子状に積層した住宅のための木造梁に関する開発研究(1987)内田祥哉他
財団法人新住宅普及会(現:住宅総合研究財団)

ご講演者ご紹介  内田祥哉(うちだ よしちか)様
建築家、工学博士、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、日本学士院会員。
1925年東京生まれ。東京帝国大学第一工学部建築学科卒業。逓信省、日本電信電話公社を経て、東京大学教授、明治大学教授、金沢美術工芸大学特任教授、同大客員教授、--日本学術会議会員、日本建築学会会長を歴任。
主な作品:1951年東京電気通信第一学園宿舎、1956年中央電気通信学園講堂、 1962年自宅、1970年佐賀県立博物館、1980年佐賀県立九州陶磁文化館、 1980~2002年武蔵学園キャンパス再開発、1993年大阪ガス実験集合住宅NEXT21、1993年明治神宮神楽殿。
主な受賞:日本建築学会賞 (1970年度作品、1977年度論文、1982年度作品)、 1996年日本建築学会大賞。
主な著書:1977年「建築生産のオープンシステム」彰国社、1981年「建築構法」市ヶ谷出版、1986年「造ったり考えたり」、1993年「建築の生産とシステム」住まいの図書館、2002年「[対訳 ]現代建築の造られ方」市ヶ谷出版、2009年「日本の伝統建築の構法.柔軟性と寿命.」市ヶ谷出版、2014年「建築家の多様 内田祥哉 研究とデザインと」建築ジャーナル

〔図の出典等一覧〕
図1-1:千代田区神田淡路町にあった二軒長屋(1923年頃 -2012年)
建設当時の平面図(神田淡路町すまいの記録:日本建築家協会
関東信越支部千代田地域会:2011年 09月)
図1-2:同上、取り壊し直前の平面図
図2:同上、取り壊し直前の外観
図3:加藤家住宅:玉置慎吾
「福井の住宅17 福井の科学者 37号」1983
図4:同上、平面図
図5:レゴで作った寄棟屋根:製作・撮影/深尾精一
図6:「畳モデュール」の単位四角柱
図7:組立実験「小径木を格子状に積層した住宅のための木造梁に関する開発研究」

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空間情報クラブ編集部

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