こんにちは、インフォマティクスの空間情報クラブ編集部です。
今回は、小倉百人一首に登場する地名をGISで地図上に表示しましたのでご紹介します。
目次
小倉百人一首に出てくる地名
今回のコラムは、百人一首の和歌をテーマに取り上げてみました。
「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」 小野小町
「ひさかたの 光のどけき春の日に しづごころなく 花の散るらむ」紀貫之
など、百人一首は日本人なら一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ここで取り上げた「小倉百人一首」は、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる秀歌撰のことで、文字通り100人の歌人の和歌を一人一首ずつ選んで作られています。
飛鳥時代の天智天皇(626年-671年)から鎌倉時代の順徳院(1197年-1242年)までの約600年間、歌人たちが詠んだ歌から選りすぐったものです。
諸説あるようですが、100首のうち44首が詠んだ場所や地名が特定できます。
GISでマッピング
現在の都道府県で見てみると、京都府 11/奈良県 11/滋賀県 5/大阪府 5/兵庫県 4/宮城県 2/福島県 1/茨城県 1/静岡県 1/和歌山県1/鳥取県 1/島根県 1 となっています。
意外なことに、京都、大阪、奈良以外にも取り上げられている地方がありました(図1)。
図1 地名登場回数の分布図
さらにGISソフト「SIS」を使って、特定できる場所(51ケ所)についてはViewPointデータセットで、山については山頂、川(竜田川(奈良県)、木津川(京都府)、猪名川(兵庫県))についてはラインで表現してみました(図2)。
京都(平安京)、奈良(平城京)近辺については、詳細図を作成しました(図3)。
ちなみに多く使われている地名として、「逢坂の関(現在の滋賀県大津市大谷町付近)」と「京都御所」が3首に登場、「難波潟(大阪府大阪市中央区高麗橋付近)」と「吉野(奈良県吉野郡吉野町付近)」が2首に登場しています(以下参照)。
逢坂の関(逢坂山)
「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関」 蝉丸
「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」 三条右大臣
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」 清少納言
京都御所
「天津風雲の通ひ路吹とぢよ乙女の姿しばしとどめむ ※1」 僧正遍照
「みかき守※2 衛士たく火の夜はもえて昼は消えつつ物をこそ思へ」 大中臣能宣
「百敷(ももしき)や※3 古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」 順徳院
※1 宮中の儀式で行なわれる「五節の舞」を舞う少女たちのことを歌ったもの
※2 宮廷の門を守る衛士のこと
※3 百敷はたくさんの石を敷き詰めた城のことで、宮中を意味する枕詞
難波潟
「難波潟みじかき蘆のふしの間もあはでこの世をすぐしてよとや」 伊勢
「難波江の蘆のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき」 皇嘉門院別当
吉野
「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」 坂上是則
「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」 参議雅経
図2 GISソフト「SIS」を使って地名を地図上にマッピング
図3 京都、奈良近辺の詳細図
さらに、44首のうち5首に複数地名がでてきます。1首のなかに3つの地名が出てくる歌として有名なのが 「大江山 生野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)です。
京都(平安京)での歌合せで歌を詠むことになった小式部内侍(母親は歌人として有名な和泉式部)を藤原定頼が、
丹後に住むお母さんの所に代作の文を受け取りに行かせたお使いの人は、もう戻ってきましたか?
とからかったのに対し、
丹後の大江山(京都府福知山市)までは遠く、幾つもの野を越えて行かなければならないので、生野(京都府福知山市生野付近)はもちろん天の橋立(京都府宮津市)にもまだ足を踏み入れていませんし、母からの手紙も見てはいません。
という歌を即興で詠み、まわりを驚かせたというエピソードが有名です。
現代と比べて移動が大変だったであろう時代に、このような地理的位置関係を瞬時にイメージできたことに驚かされます(図4)。
百人一首は比喩や掛詞などの技巧、現代にも通じる季節感など、文学として素晴らしいのはもちろん、地図の視点から和歌を見てみると、新たな発見がありそうです。
図4 小式部内侍が詠んだ歌の中の地名を元にしたルート図
<地図データ出典>
地図作成にあたっては以下のデータを使用
・国土数値情報 河川データ、観光資源(国土交通省 国土地理院)
・SISバンドルデータ 都道府県行政界.bds
<参考文献>
『図説 地図と由来でよくわかる!百人一首』(青春出版社/吉海直人 監修)